持続可能って?と問うこと
今日の祈り
今のわたしに必要な問いをわかりやすく知らせてください。
今日の書物占い
「ある問い」を考えつく、という時点から祈りの力を借りる。
グループホームでの仕事中、「どんな問いなのだろう?」とすでに考え込んでいる自分に気づく。
祈りが呪いになっとるやないかい!
と、その瞬間(今)に戻り、深呼吸をする。
わたしは、問いがどんな形で現れるのだろう?とワクワクしていたのだ。笑
すると、入居者さんと話をしていたとき、なんの脈絡もなく、「持続可能」と湧いてきた。それは、内側から聞こえてくるような感覚。外からというよりはわたしの中から湧いてくるような感覚だった。
「持続可能」って、テーマ大きくないか?とジャッジマンわたしが出てきて、疑い始めるわたしもいた。だが、わかりやすくとオーダーして、わかりやすく知らされたじゃないの。
そして何よりこれがそれという感覚、自分が感じていることを信頼する機会じゃないの。
そんなわたしも出てきた。
思い出したのは、息子を出産したあと、「このままではいけない!」という警告のようなものが自分の中にあったこと。
このままの社会(地球?宇宙?)を次世代(息子)に引き渡すのは、無責任だという自責の念のようなものがあった。
今思えば、わたしがわたしらしく生きることに注力していないことへの警告だったのだが。
一人ひとりがその人らしく生きることが持続可能な社会の創造には欠かせない。
もうひとつ。
「ケンカをしなければ、持ち堪えられる。」
という韓国ドラマのセリフが浮かんできた。
結局のところ、我慢や無関心の上に成り立つもので、持ち堪えられるとすればそれは形式だけ。
対立を避けて、相手を好きでい続けたり、よりよい関係性を育むことは困難なこと。
持続可能には、対立やカオスが生まれることは自然なことなのかもしれない。
☆。.:*・゜
今日、グループホームでのこと。
一昔前クイズみたいなものがあって、その存在は知りつつ全く興味が湧かなかったのだが、今日はなんとなくそれを手にとるわたしがいたので、四の五の言わずにやってみた。
そのクイズはきっかけに過ぎず、みんなそれぞれにそのクイズにまつわることから記憶が蘇って、生き生きと楽しそうに話す姿が印象的だった。
昨日お風呂に入ったことやついさっき食事をしたことは忘れていても、心に残っていることはよく覚えている。
その人が生き生きと当時のことを話す様子から、場面が浮かんだりしてその人のことをより知る機会になったし、その様子を見ているのは幸せだった。
ただ、その瞬間は、ぶわっとエネルギーが湧いていて楽しそうだけど、持続可能な楽しさではない。
本人やそこにいる誰かの楽しもうとする意欲が、必要不可欠だ。
そうそう。
昼食後、リビングを出て、廊下を渡った先にあるホールに行きたいと言う入居者さんがいた。
その時はスタッフがわたし1人しかいなかったため、協力できなかったので後から行く約束をした。
もう1人のスタッフが戻り、数人を誘ってホールへ行く。
猫好きの彼女の猫探しタイム。
もう1人は、室内でもいいから歩きたい人の散歩タイム。
ささやかだけど、ふたりの希望が叶い、わたしにとっても気分転換となる嬉しい時間だった。
欲求を伝えて協力を得ることも、持続可能の秘訣だ!