エネルギーが枯渇する理由
「あぁ、エネルギー枯渇してるわー。カツカツやし、バサバサやし、パッサパサ。」
そんなときは、わたしがわたしと繋がっていないときだ。わたしとわたしが繋がると、エネルギーが循環しだす。
スマホの充電器は、電気の供給によって満たされる。充電器を離せばどんどんと充電は減っていく。
人間も似てるなぁ、と思う。
自分以外の人やものから得たエネルギーは、時間が経つとどんどんと減っていく。自ら湧き上がるエネルギーのみ、循環させ続けることができる。
自らエネルギーが湧き上がるときって?
と考えていたら、ふと浮かんだのが、昨年の夏に行った清水寺の胎内巡りだ。
お寺の地下を真っ暗な中歩く。頼りは出口まで続く数珠のみ。数珠に触れ続けている間、そこにはなんとも言えない安堵感のようなものがあった。あぁ、これさえあれば迷うことはないんだな、という感覚。
あの数珠って、自分のビジョン(希望)だよな。すぐに見失ったり忘れたり、はたまた思い描けないからエネルギーが枯渇するんだ!
そう思っていたわたしはあるとき、「想像力が乏しいんだよなぁ。」と呟いた。
すると、ひとのことアカデミーの講師あっこが、「ん?想像力が乏しいんじゃないよ。自分と繋がってないんだよ。」と言う。
「ほう!」と、身体ごと、頷く。
能力の問題だと思っていたから、目からウロコ状態。
ある日、病院で仕事をしていた日のこと。
それは働きはじめて3ヶ月目に入り、一通りのパートの仕事を覚え、ラストに残されていた「詰所係」という仕事を覚えていた週だった。
メッセンジャー的な役割もあり、薬局や事務、検査室、売店などと病棟を行ったり来たりする。
患者さんとのコミュニケーションを欲している自分がいることに自覚がないまま、過ごしていた。
そんなわたしに、「ねぇ、爪切って。」と言う患者さん。夕方17時近かったため、他部門へいく仕事も止む頃だと考え、「これが終わったら声かけますねー。」と答えた。
だが、そんな日に限って仕事が舞い込み、気づけば夕食の時間。「また明日でいいよ。」と患者さん。
もやもやした気持ちを抱えながらの帰り道。
振り返りながら、自分の欲求に気づく。
「あぁ、わたし、患者さんと話すのたのしみにしてるんだ。」
「はぁー、それなら、別に爪切りじゃなくても関われるやん。ってか関わってた瞬間だってあったやん。実感持って話してなかったのはわたしやん。」
「あー、それによ、患者さんの爪切りだってわたしが握りしめなくったってよかったやん。」
と思って、やっと視野が拡がり、
「あーーー、𓏸𓏸さんに頼めば行ってもらえたかもー。もしかしたら他にも頼める人いたかも。」
そう思うと、一気に込み上げる恥ずかしさ。
自分と患者さんどちらの希望も叶えることができなかった申し訳なさ。
自分と繋がっていると、自分の欲求も自ずと実感できる。欲求と自分の行動が違っていると、違和感や居心地の悪さを感じる。
あぁ、あの数珠は、わたしの希望か。
しっくり。
エネルギーが枯渇する理由は、自分との繋がりを断ち、希望を忘れているから。