変化するたのしみかた
「(仕事)たのしんでるね。」
今日、ある人からかけられたひと言。
わたしのnoteを読んだ彼女が感じたこと。
わたしがアウトプットしているグループホームでの様子からそんなふうに感じるのか!と一瞬戸惑った。
だけどまぁ、事実だ。
退屈さの中に身を置いて、退屈を存分に実感し、その環境の中で自分をたのしませる方法を考えている。正解はないし、やってみない限り退屈は続く。だから、思いついたことはやってみている。
たのしさはある。
ところでわたしは、何をたのしいと感じているのだろう。
心の動きを感じること
入居者さんが、昔のことを思い出して生き生きと語りだしたり、言葉では表現しない人がシャワー浴中気持ちよさそうな表情をしていたり。
その気持ちが昨日の入居者さんのように悲しみや寂しさであっても同じだ。
そこには、「その人らしさ」があるからたのしい。
ほんの一部であっても、その人の一部に触れるような感覚があって、わたしはそこに喜びを感じる。
相手を知ること
そうやって、相手のことを知ることをたのしんでいるなぁ。
基本、人には興味がないわたしが人に興味を持つようになっている。少しは成長したな。
第2チャクラの、対人関係を通して自分を知ることを実践しているようだ。
自分の心の動きを感じる
相手の行動や言動を通して、ざわついたり、羨ましかったり、腹が立ったりする。
そうやって湧いてくる気持ちは、わたしの中にある欲求を教えてくれる。
昨年末から半年間とちょっと、老人ホームやグループホームなどを中心に仕事をしてきた。
はじめは、その退屈さに萎えそうにもなったが、自分がその環境をどんな機会にするのかを委ねられていると思ったら、「いかに自分をたのしませるか。」ということに注力するようになった。
たのしみを見いだすには、観察力が必要だということを学んだ。観て、観て、観て、そして感じて、自分の内側から湧いてくることを頼りに人と関わる。その繰り返しの中で、あらゆるもどかしさや葛藤も生まれたが、喜びやたのしさもあった。それをひっくるめてたのしかった。
今日わたしにかけられた「(仕事)たのしんでるね。」のひと言によって、わたしにとっての「たのしい」が変化していることを実感した日となった。
今日、今月末から働く病院へ行き、健康診断を受けてきた。採血もレントゲンも心電図も何年ぶりだっただろう。病院とは縁遠い生活を送ってきたから、新鮮さと懐かしさが入り交じる不思議な気持ちになった。
ここ最近、自分の落ち着かなさを感じていた。
「あぁ、わたし落ち着かないんだ。」と実感が伴った瞬間、落ち着いたのだが。笑
そのあとは、ワクワクしている自分がいるのだけど、同時にそれを抑制するわたしがいて心地が悪い。
過去の自分の習慣だ。
ワクワクするときに自分以外の人や環境に期待して、「思っていたのと違う!」とがっかりする経験をしてきた。
この半年間で、他に期待しても何ひとつ変化が生まれない体験をしたわたしは、過去のわたしとは違う。
だとしたら?
どんな好奇心が湧いているのだろう。
そうそう。わたしに備わっている好奇心。
よきに使うには?と考えていたところだった。
あぁ、ワクワクを抑制するものがもうひとつあった。
それは「苦」。
次はどんな苦が待っているのかと思うと、怖さがある。
次の職場に老年期医療・精神科医療の現場を選んだのはわたしだ。
『この世で一番の奇跡』(オグ・マンディーノ)という本の中の神の覚え書きに記されている「あなたの枠を超えなさい!」という教えに従うならこっちだと感じて選んだ道。
「不快な主人に仕えていても、気にしてはなりません。彼にもっと奉仕しなさい。」
強く心に残るメッセージ。
仕える相手を選び続けてきたわたしにとっては、まさに「苦」だ。
だけど、最近学んでいることを実践する絶好の機会でもある。
不快だと感じる相手を受け入れる自分を許し、相手にある要素を自分に取り込む。
きっと勤務し始めたあとのnoteに、「きたーーーっ!不快な主人。」というタイトルのもと、どんなプロセスを経て奉仕していくのかを書き記していることでしょう。