「浦添ようどれ」の旅
怒りと悲しみ
「浦添ようどれ」への許しがたき蛮行の報に接し、胸を鋭いもので突き刺されるような痛みを感じた。怒りと悔しさと悲しさで泣いている。
「浦添ようどれ」を訪れたのは8月末の沖縄旅でのこと。ゆいれーる一日乗車券を使って観光をした時のことだった。
沖縄の辿ってきた歴史と今とをつなぐ、強烈な場所だった。
浦添には、かつて琉球王国初期の王都があった。首里城に王都が移る前の王城(グスク)があり、王陵があった。
ここは沖縄戦では「前田高地」、アメリカ軍からは「ハクソー・リッジ」と呼ばれ、「ありったけの地獄を集めたような」激戦地であった。
当時、浦添には9,217人が住んでいたが、この戦争で4,112人が亡くなった。ほぼ人口が半分になってしまったのだ。グスクも王陵も徹底的に破壊された。そのかけら一つ一つを、残された資料を手掛かりに気の遠くなるような年月とたくさんの人の努力でようやく2005年に復元が完了したのが「浦添ようどれ」である。
守るのは大変だけど、壊すのはあっという間。だからこそ、再建され守られてきた文化財のいかに貴重なことか。
「浦添ようどれ」の旅は強烈だった。
かつて華やかなりし文化を誇った琉球王国の誇り、沖縄戦で亡くなられたすべての人々への鎮魂の思いと、平和への祈り。
そういった真摯な願いが込められた場所だと思った。
途中まで訪問記を書いていたのだが、もっとしっかり調べてから書こうと思い、そのままになっていた。
もっと早く書けばよかったと悔やまれてならない。
私が記事を書いたからと言って、何かが変わったわけではないだろうが。
今日、その旅について書ききってしまおうと思う。
ゆいれ〜る1日乗車券
ホテルから空港行き9時発のシャトルバスに乗り、那覇空港には9時30分過ぎ頃に到着。
すでにオンラインチェックインを済ませていたので、夜7時発の便だが、もう荷物を預けることができた。
コインロッカーに荷物を出し入れする必要がないので、これはラクチン!チェックインより随分前に荷物を預けられるとは知らなかった。
今日は「ゆいれ〜る」の1日乗車券を使って、那覇・浦添観光をするのである。
一日乗車券は2024年8月末時点で800円で、購入時に印字される24時間後まで使用できる。
那覇市内に連泊をする旅程の時は、当日の午後から使い始めて翌日の午前中いっぱいまで使う、などの活用方法もあるだろう。未来の旅のために覚えておこう。
改札でバーコードをタッチして使用する。
まずは空港から首里城を越えて浦添前田に向かう。
一番後ろの、レールの見える場所に座ったので、空に浮かぶように敷かれたレールと、流れてゆく沖縄の街並みがよく見えた。
浦添大公園
浦添前田駅を降りると、炎天下の歩道を歩き、開けた場所についた。浦添大公園の南エントランスである。
駐輪場と管理事務所があり、石畳の歩道が、緩やかに丘の上の方に続いている。
浦添大公園は総面積は37.4ヘクタールの広大な公園で、巨大ローラースライダーのある「ふれあい広場ゾーン」ピクニックのできるゆんたく広場や遊歩道のある「憩いの広場ゾーン」、そしてグスク(王城)跡と復元された「ようどれ(王陵)」のある「歴史学習ゾーン」の3つのゾーンに分かれている。
我々が目指しているのは歴史学習ゾーンである。私たちは、なんとなくグスク跡が見たくてそこを訪れたのであった。
琉球王国の旧都、前田高地、そしてハクソーリッジ
燦々と降り注ぐ陽光に照らされる石敷の歩道を登っていくと、途中に立派な石碑があった。何か書かれているが、読めない。
裏側はどうかな?
後に「浦添グスク・ようどれ館」の資料でわかったのだが、「浦添城の前の碑」は、尚寧王(1589-1620)の命で浦添城から首里までの道路を整備し、1597年に完成したことを記念して建てられた竣工記念碑だそうだ。
丘の上に向かって伸びるこの石畳の道がそうかな?かつて首里城まで、この美しい石畳がつながっていたのか。
その道を登ってゆくと、迷彩服のアメリカ軍の兵隊さんたちがたくさんいて、何やらオリエンテーションをやっているようだった。
誰も全く目を合わせようとしない。なんだか怖い。
屋根付きのベンチの左側からはるばる前方に浦添市街とその向こうの海をながめることができる。
丘の上に何やら石碑があり、南国風の花が一輪手向けられていた。
そこでハタ、と気がついた。
ここは沖縄戦の激戦地のひとつ、前田高地だったのだ。ここにいる兵隊さんたちはおそらくこのすぐ近くのキャンプキンザーの海兵隊員で、彼らにとってこの場所は映画「ハクソー・リッジ」にも描かれた抗日戦の舞台であり、必ず訪れるべき場所のひとつなのだろう。
海兵隊員だけではなく、小さな子供たちを連れたアメリカ人らしき家族もいた。ハクソー・リッジを見に来ているのだろうと思うと、かなり複雑な気もちになった。
ここには、かつての琉球王国の辿ってきた歴史と、今の沖縄がぎゅっと凝縮されている。
ここは、抗日戦を描いた映画「ハクソーリッジ」に登場した舞台だけではない。かつて華やかなりし文化を誇った琉球王国初期のグスク跡があり、戦後たくさんの人々の努力によって復元された琉球王国初期の王陵がある。
そんな、沖縄の歴史がぎゅっとつまった場所であることも、訪れる人々に知って欲しいと思った。
ディーグガマ
鍾乳洞が沈没してできた窪地で、グスク内の御嶽(うたき=拝所)のひとつである。ディーグはデイゴ、ガマは壕のことで、かつて大きなデイゴの木があったことからこの名前がついた。戦時中は住民の避難壕として使われたそうだ。降りていくと千羽鶴とお酒が捧げてあった。洞窟の中は納骨堂になっているそうで、5000余柱が祭られているそうだ。きゅっと心が引き締まる思いがした。ディーグガマの近くには沖縄戦で亡くなった人々を祀る浦和の塔があり、我々はどちらにも手を合わせた。
暑い日であった。青空の下歩いて行くと復元された石垣があった。
かつて浦添城入口であった場所かな?向こう側に街と海が見える。
浦添市教育委員会の説明看板によると、「浦添城の城壁は沖縄戦後の採石により城壁の石材が持ち出され、城壁がほとんど残っていなかった。発掘調査で城壁の切石がかろうじて残っていることを確認し、そのわずかに残された切り石を生かし、失われた部分に新しい切石を積み上げることで復元した」とある。
復元された石垣は壮大である。この姿にまで復元する、ということがいかに大変な作業であるか、ここでも伝わってくる。
沖縄学の父 伊波普猷の墓
ようどれに向かって進んでいくと、「伊波普猷の墓」の説明看板があった。
伊波普猷先生(1876-1947)は、言語学や歴史学など様々な学術分野から沖縄の文化・歴史を研究し、後の研究者に「沖縄学の父」と呼ばれている学者である。浦添が朱里以前の王都であったことを「浦添考」で初めて正式に論文としたのも彼であった。思うにその研究は、沖縄戦で破壊された浦添ようどれの復元に向けた取り組みの原動力となったであろう。
その膨大な研究活動の根底にあったのは、沖縄への愛である。
沖縄の行く末を案じながら故郷を思い亡くなった伊波普猷先生を慕う有志の手によって、彼の研究と縁が深かった浦添グスクの静かな一画にお墓が作られた。
お墓の横に建つ顕彰碑にはこう刻まれている。
彼ほど沖縄を識った人はいない
彼ほど沖縄を愛した人はいない
彼ほど沖縄を憂えた人はいない
彼は識ったが為に愛し愛したために憂えた
彼は学者であり愛郷者であり予言者でもあった
浦添ようどれ
「ようどれ」とは琉球語で「夕凪」のことを言う。
「浦添ようどれ」は岩壁を掘り削って作られた琉球王国初期の王陵で、琉球國中山王である英祖王(在位1260年-1299年)が築いたといわれている。その後、1620年に浦添出身の尚寧王(在位1589年‐1620年)が改修し、王自身もここに葬られた。
ごつごつした琉球石灰岩沿いに作られた遊歩道を進むと、前庭から二番庭へと誘う「暗しん御門(くらしんうじょう)」がある。
かつてはトンネル状で、暗く厳かな雰囲気は、まるで冥界への入口のようだったそうだ。上部の岩は沖縄戦で崩れてしまった。でも、厳かな雰囲気は残っている。明るい陽射しの中、歩を進める自分の足音だけがいやに大きく響く。明るく厳かな場所へと続いている。ほんとうに冥界への入口のようだ、と思った。
暗しん御門を抜けると、ありし姿そのままに復元された壮大な王陵への入口が見える。
「墓室は向かって右の西室が英祖王陵、向かって左の東室に尚寧王とその一族が葬られている。墓室には骨を納めるための石製の厨子が安置されている。沖縄戦や戦後の採石で徹底的に破壊されたが、1996年から実施した発掘調査の成果に基づき、2005年に戦前の姿を復元した」とある。
尚寧王はなぜ英祖王陵を改修し、自らもここに葬られたのであろうか。
尚寧王が在位中の1609年に薩摩藩の島津氏の軍事侵攻があり、以降琉球は薩摩藩に属し、尚寧王は江戸に連行されて徳川秀忠に謁見後、琉球に戻されたらしい。思うに、琉球という美しい国の姿を後の世に伝えたいという、王としての誇りがこの王陵の改修の原動力だったのではなかろうか。
復元された浦添ようどれは静かで荘厳な王陵だった。
琉球王国が辿ってきた激動の歴史に思いを馳せつつ、現世と冥界をつなぐ石積みの門をくぐった。
浦添の街を眼下に眺めながら降りてゆくと、平らな開けた場所に出た。ここはお墓番の屋敷跡があった場所らしい。
「戦後の採石によって地形ごと失われ・・・」の文言が気になる。文化財喪失の理由のひとつらしい。
帰りがけに「浦添グスク・ようどれ館」に行ってみた。
浦添ようどれに安置されている厨子の精巧なレプリカを、空間ごと再現した部屋で見学することができる。また、貴重な歴史資料や映像資料も見ることができる。
暑い日で熱中症になりかけていた我々は、「ようどれ館」で歴史を学びつつ涼むこともできて大変によかった。
かつて壮麗な文化を誇った琉球王国の史跡は沖縄戦で無残に破壊された。人々は、わずかに残された史跡の残骸を発掘し、文献を調査して、膨大な時間と労力をかけて文化財を復元し次世代へとつないできた。
そうやって復元された場所を訪れると、琉球王国が実に美しい国であったことがわかる。
壊すのは一瞬。守るのは大変。復元するのはもっと大変。
大変な思いをして復元され守られてきた文化財を、未来に向けて守り伝えていくことがいかに大切か、この旅で改めて思い知ったのであった。
真夏の浦添城跡の散策は、暑かったが、明るく荘厳で、かつてここに存在した海の王国の華やかな文化や物語を感じることができた。
実にいいお散歩だったよ。