海の匂いとモズクガニ
父は釣りが大好きで、暇さえあれば釣りに行っていた。
川釣りも海釣りも大好きだった。
釣ってきた生き物は食卓に登ることが多いが、水槽で育てられることも多かった。
母の話によると、ある時、モズクガニが釣れた?らしい。
父はモズクガニを庭の温室内の小さな池に入れた。
モズクガニは、真水と海水がまじりあう河口などの汽水域にいるらしい。
その温室内の小さな池は真水だった。
モズクガニはしばらくその池の中で暮らしていた。
父は温室に行っては、モズクガニが池底をヨチヨチ歩くのを見て満足げにうんうんとうなずいていたそうだ。餌をあげては食べる様子を飽きることなく眺めていた。
ある時、父が海釣りで使ったタモを、庭に面した壁にたてかけて干していた。
一晩干して、さあ、しまおうとタモを片付けにいくと、モズクガニがタモにしがみついて死んでいた。
「海の匂いを探して、池から脱走したんだよ。タモのところにたどり着いて、力尽きたんだね。」と母は言った。
温室から、タモが干してあった場所までは、カニの気持ちになるとずいぶんと離れている。潮の香りだけを頼りに、気の遠くなるような距離をあるいたのだろう。
海が恋しくて、海の匂いを感じて、その匂いのもとまでたどり着いて、あ、海じゃない、と気が付いて力尽きて死んだカニ。
海に帰りたかったんだね。
きっと、そのカニが住んでいた海の匂いだったのだろう。
そこで待っていれば、そのうち潮が満ちて帰れると思って待っていたのかな。
小さな生き物の気持ちが伝わってくるようで、とても切なかった。