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鍵盤に刻んだ夢
その駅の中央ホールには、一台の自由に弾けるピアノが置かれていた。ピアノは少し傷んでいるものの、どこか懐かしさを感じさせる風合いを持っていた。12月30日、年の瀬の冷たい空気が人々の足を速める中、そのピアノに向かう青年がいた。
彼は真っ白な手袋を外し、指先をそっと鍵盤に置く。そして、ゆっくりと弾き始めたのはスティービー・ワンダーの「I Just Called to Say I Love You」。その旋律が広がると、通りすがりの人々の足が止まり、自然と静かな聴衆ができていく。
その中に、一人の女性がいた。長いコートに身を包み、リズムに合わせて微かに身体を揺らしている。彼女は毎日この駅を通り、そのピアノの音を楽しみにしていた。そして、この青年の演奏を聞くときだけ、心の中に何か温かなものが灯るのを感じていた。
演奏が終わり、周囲から小さな拍手が沸き起こる。青年が立ち去ろうとしたその時、女性は思い切って声をかけた。
「素敵な演奏でした。」
青年は少し驚いたように振り返り、柔らかく微笑んだ。
「ありがとうございます。スティービー・ワンダーが好きなんです。」
「私もです。彼の曲には、不思議な力がありますよね。」
それをきっかけに、二人は話し始めた。青年は音楽学校を目指していたが、家庭の事情で夢を諦めざるを得なかったことを語った。彼がピアノを弾くのは、もう一度夢を思い出すためだという。
一方、女性はかつてジャズボーカリストを目指していたが、自己不信に苛まれ、舞台から遠ざかってしまったと話した。二人はそれぞれの過去に触れるうちに、スティービー・ワンダーのある逸話について語り合った。
「彼が幼い頃、母親が音楽の道を進むように強く後押ししたそうですね。視覚障害があっても、彼は音楽を通じて多くの人を励まし続けた。」
「そう、彼の母親が言った言葉が好きです。」
「『自分の声が届けば、それだけで十分価値がある』」と、女性が続けた。
その言葉が二人の間にしっかりとした絆を作り出した。彼らはその後、毎日のように駅で会い、青年はピアノを弾き、女性はそっと歌声を重ねた。その小さなコンサートは、いつしか人々の心を温める存在になっていた。
そして、二人は気づいた。夢をあきらめることは、決してその夢が叶わないことを意味しない。むしろ、それは新たな形で再生するための一歩だと。どんなに困難があろうとも、自分の信じる道を歩む限り、夢は失われることはないのだと。
12月30日が過ぎ、新しい年を迎える頃には、二人の演奏は駅の象徴となっていた。そして、いつかまたスティービー・ワンダーの曲を二人で演奏し、より大きな舞台で多くの人にその音楽を届けるという新たな夢が生まれていた。夢は終わらない。夢は再び燃え上がり、彼らを新しい未来へと導いていくのだ。