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暗闇を超えて :悲しみは星影と共に
義理の父が散財したために家業が倒産し、高校・大学時代を非常に厳しい環境の中で過ごした私にとって、青春時代の思い出はほとんどありません。華やかな青春と呼べるような出来事は一切なく、日々の生活に追われる中で、唯一の楽しみがありました。それは、月に1回名古屋のヘラルドシネプラザで映画を観ること、そして古本屋で本を買い、読書にふけることでした。どれも小さな楽しみでしたが、私にとってはかけがえのないひとときで、心の支えになっていました。
高校・大学時代、私はずっとアルバイトに追われていました。学業よりも働くことが優先され、放課後の自由な時間などほとんどありませんでした。しかし、ヘラルドシネプラザでの映画鑑賞は、そんな日常の中での一筋の光でした。特に3本立ての映画を格安料金で観ることができるシステムがあったため、朝から晩まで映画三昧の日々を送ることができ、映画に没頭することで、少しでも日常の厳しさから解放されることができたのです。
その中でも、私が特に印象に残っている映画が、ドキュメンタリー出身の新人監督ネロ・リージが手掛けた「悲しみは星影と共に」です。これは、戦時下の悲劇を描いた作品で、静かな始まりから観る者を引き込んでいく作品でした。前情報なしに観た私には、まさに衝撃的な内容が待っていました。この映画は、単なる戦争の悲惨さを描くだけでなく、戦争という極限の状況の中で人間がどのように葛藤し、希望を持ち続けるのか、そしてその中でいかに愛を見出していくのかを描いていました。
物語は、第二次世界大戦下のユーゴスラビアを舞台に、ユダヤ人として迫害される姉弟の姿を描いています。若い姉レンカと盲目の弟ミーシャが、ドイツ軍による圧迫にさらされる中で、生きる希望を見出していく姿は、観る者に強い印象を与えます。特に、レンカが「いつか目の見える世界を見せてあげる」と弟に語るシーンが印象的でした。この言葉の裏に隠された深い想いを感じると同時に、観ているこちらもその希望に胸が熱くなりました。しかし、その言葉の裏側には、戦争という現実の重さが常に感じられ、希望を持ち続けることの難しさが映し出されていました。
映画が進むにつれて、観る者にとって予想もしない衝撃的な出来事が次々に訪れます。レンカとイヴァンとの一瞬の淡い恋、家族が命がけで逃亡する場面、そして愛する人々との悲しい別れ。どれもが、想像を超えるほどの衝撃でした。その中でも最も胸に刺さったのは、収容所に送られることが決まった姉弟が貨車の中で交わす最後の会話のシーンです。レンカが「目の手術に行くんだよ」と弟に語り続けるその横顔には、希望を持ち続ける強さと、それでも押し寄せる現実の重さが溢れていました。涙が止まらないシーンでしたが、その静けさとともに心を強く揺さぶられました。
この映画が特に素晴らしいのは、戦争の悲惨さをただ描くだけではなく、その中で人間がどれだけ美しく、力強く生きようとするのかを描いている点です。戦争という圧倒的な絶望の中でも、決して失われない人間の美しさや希望が強く伝わってきました。映画の中で描かれるレンカとミーシャの愛、家族との絆、そしてそれを支える人々の優しさは、戦争の悲劇を超えて普遍的なテーマとなって私に深く響きました。
映像の美しさも、この映画を忘れられないものにしています。短いながらも記憶に残る美しいシーンが多く、特にレンカとミーシャの旅立ちのシーンはその後も何度も思い返しました。また、ジェラルディン・チャップリンの繊細で力強い演技が、この物語に深みを与えており、彼女が演じたレンカはまさにこの映画の心そのものでした。彼女の演技があってこそ、物語に込められた希望と絶望、愛と別れが観る者に強く伝わったのです。
出演者には「ドクトル・ジバゴ」のジェラルディン・チャップリンをはじめ、「シェルブールの雨傘」のニーノ・カステルヌオーボ、「国境は燃えている」のA・ガブリック、そして子役フェデリコが出演しており、どの役者もその演技で物語に命を吹き込んでいました。1965年製作のイタリア映画であるこの作品は、今も私の心に強く残り続けています。
偶然観たこの映画が、私の人生に与えた影響は計り知れません。戦争の悲惨さとともに、人間の強さや希望、そして愛の美しさを深く考えさせられる作品でした。振り返るたびに心に響き、平和の大切さや人が人を思いやることの尊さを改めて感じさせてくれるこの映画は、私の中で何度も思い返すことになる特別な作品です。