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20年越しの栄光:フラッシュメモリ開発に人生を捧げた舛岡富士雄


技術と情熱の原点

舛岡富士雄は、1943年に広島県で生まれた。戦後の混乱期を生きた彼は、幼少期から強い探究心を持っていた。父親が修理屋を営んでいたことも影響し、舛岡少年は家庭にある壊れた機械を分解しては直すことを繰り返していた。やがて彼の好奇心は電子工学の世界へと広がり、高校時代にはラジオを自作するほどの腕前を身に着けていた。

その後、東京工業大学に進学し、電子工学を専攻。日本が高度経済成長期に入り、技術革新が社会の大きな原動力となる中で、彼は自分の才能を活かして社会を変えたいという夢を抱くようになった。

東芝での挑戦:フラッシュメモリの発想

大学院を卒業した舛岡は、日本を代表する技術企業である東芝に入社。そこで半導体技術の開発に取り組むこととなる。当時、半導体メモリは次世代技術として注目されていたが、電力を供給しないとデータを保持できないという課題があった。

ある日、彼は研究室で半導体の性質を観察しているときに、ふとひらめきを得る。「電力がなくてもデータを保持できる半導体メモリが作れれば、画期的な技術になるはずだ」と。そのひらめきは、後に「フラッシュメモリ」という新たな技術の扉を開くアイデアだった。

しかし、この発想を形にするためには数々の技術的な壁があった。データを保持する仕組み、書き換え可能な構造、さらに製造コストの問題――彼はこれらの課題に直面しながらも、持ち前の執念と技術者としての誇りを持って研究を進めた。

逆風の中で

舛岡のアイデアは革新的であったが、同時に既存の技術に慣れ親しんだ東芝の経営陣にとっては理解されにくいものだった。上層部は彼の提案を「市場性がない」と一蹴し、研究に必要なリソースを十分に提供しなかった。さらに、当時の半導体分野では海外メーカーの競争力が増しており、社内はコスト削減に追われていたため、新規技術の開発は後回しにされる傾向にあった。

しかし、舛岡は諦めなかった。限られたリソースの中で試行錯誤を続け、ついに1980年、電力を供給しなくてもデータを保持できる「不揮発性メモリ」の基礎となる技術を完成させる。彼がこれを「フラッシュメモリ」と名付けたのは、データを瞬時に消去する仕組みがカメラのフラッシュのようであることに由来する。

技術の完成とその先

1984年、舛岡はついにフラッシュメモリの基本原理を完成させ、特許を取得した。この技術は後にUSBメモリやSDカード、SSDといった現代の情報社会を支える基盤技術へと進化することになる。しかし、当時の東芝は依然としてこの技術の価値を認識していなかった。舛岡は、評価されるどころか十分なサポートも受けられず、技術者としての不遇を味わう。

失意の中、彼は1994年に東芝を退職し、大学教授としての道を歩むことを決意。彼はその後も後進の育成に尽力し、技術者としての誇りを胸に研究を続けた。

世界的な認知と遅すぎた栄誉

舛岡が開発したフラッシュメモリは、1990年代後半から2000年代にかけて世界中で普及した。スマートフォン、デジタルカメラ、データセンターなど、現代のデジタル社会を支える要となる技術として広く使われるようになった。その価値が広く認識されるようになったことで、彼はアメリカの「IEEEマイルストーン」などの国際的な賞を受賞するに至る。

しかし、これらの栄誉が与えられたのは、彼が技術を完成させてから20年以上も経った後だった。日本国内での評価が低かったことについて、舛岡は次のように語っている。

「私は世界に貢献できた。それだけで十分だ。しかし、次世代の技術者たちには、正当に評価される環境を作りたいと思う。」

舛岡富士雄の遺産

舛岡富士雄の生涯は、技術者としての情熱と苦闘に満ちたものであり、彼の開発したフラッシュメモリは現代社会に欠かせない基盤技術となっている。スマートフォンやクラウドストレージ、さらにはAIやIoT技術の発展においても、彼の功績は計り知れない。

彼の物語は、才能ある技術者が適切に評価されるべき社会の重要性を教えてくれる。そして、彼のような「忘れ去られた英雄」を讃えることは、日本の未来を切り拓く新たな才能を見出す一歩でもあるだろう。

舛岡富士雄――彼の名前とその功績を、私たちは決して忘れてはならない。

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