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33歳一大転機説

僕はかつて日本のプロレスと東京漫才(関西漫才ではない)が好きだった時期がある。今では私小説と漢文に夢中になっているが、プロレスラーになろうとしたり、浅草で漫才師になろうとした程、僕はそれらに心が奪われていた時代があったのである。

でそんな僕もご多分に洩れずと言うべきか、日本プロレス界の重鎮と東京漫才界の重鎮に多大な影響を受けた。それはアントニオ猪木氏とビートたけし氏の2人である。なにしろ、この2人、プロレスと漫才と云うショービジネスの世界で天下を獲ったと云う共通点だけでなく、色々と調べてみると33歳の時に一大転機が訪れていると云う点も共通しているのだ。だから今回はこの両者の33歳の頃を振り返って考察としてまとめてみたいと思う。

まずは燃える闘魂アントニオ猪木氏の場合から見ていきたい。1943年の2月に誕生した猪木さんは1976年に33歳を迎える事となったのであるが、この年、猪木さんの38年間にも及ぶ現役生活の中でベストバウトとも言うべき一戦が日本武道館で行われた。MMAの原点ともなった、ボクシング世界ヘビー級チャンピオンモハメド・アリとの異種格闘技戦である。

猪木vsアリ

実はこの一戦、今でこそ総合格闘技の第一歩に貢献したとして多大な評価を受けているが、当時は猪木がアリに対して寝そべってアリキックを多用するだけで見所に乏しく「世紀の凡戦」と云う評価が大半であったと云う。NHKに至っては磯村と云うアナウンサーが、猪木vsアリ戦の事を「NHKが報道するまでもない茶番劇」と酷評する始末で散々なものだったと云う。要はプロレスを単純な出来試合としてしか見ない人が当時は大半で、この異種格闘技も言葉はキツいが「八百長」と長らくされていたのである。

しかしここ数十年、暴露本の流行やインターネットの普及によって、当時の関係者の口からはあくまでこの一戦は予定調和や打ち合わせなどは一切ない文字通りの死闘であり、真剣勝負であった事が人口に膾炙するようになった。やはりこの一戦はどこまでいっても伝説の一戦なのだろう。

そしてこのアリ戦によって猪木さんは数十億円と云う借金を背負う事になったが、実現不可能と見られていたアリ戦を実現させた事によって、アントニオ猪木と云うプロレスラーの名は世界中で知れ渡るようになり、その後世界の強豪が猪木さんに挑戦しに異種格闘技戦を挑む事となった。つまりこの一戦によって世界的なブレイクを猪木さんは果たしたのである。

次に今では世界のキタノとなってしまったビートたけし氏の場合について。1947年の1月に誕生したたけしさんが33歳を迎えたのは1980年の事である。ちなみにこの1980年と云う年は漫才の歴史にとって非常に画期的な意味を持つ。なぜなら、テレビを主戦場とした形で初めて「漫才ブーム」が起こったからである。

勿論それまでにも漫才が流行った時期はあったが、寄席や劇場などが主体で、地上波のゴールデンタイムに漫才だけの漫才番組が放映される事など皆無に等しかったからだ。そして当時「ツービート」として毒ガス漫才と云うブラックジョークのキツい漫才をしていたたけしさんはこの「漫才ブーム」の波に乗り、「THE MANZAI」で主に出演していた吉本系の漫才師に対抗する形でスターダムにのし上がったのだった。

1980年のツービート

結局この漫才ブームは1980年から81年にかけて続くが、星セントルイスが途中でブームから足を洗った為に、東京漫才として戦い抜いたのはツービート一組で、残りは全て吉本興業を中心とした関西の漫才師だった。

僕個人の感想を述べれば、ツービートの漫才よりも母セントルイスの漫才の方が面白いと思うし、たけしさんの笑いはあまり好きではないが、この1980年から81年のツービートの漫才は確かに面白かったし、輝いていたと言わざるを得ない。だからたけしさんにとっても1980年と云う年は長い芸人人生の中で一番印象深い年なのではないかと推察するし、実際そうだったのではないか。そしてその後のたけしさんは81年には「オレたちひょうきん族」の主力メンバーとなり、やがては日本人のお茶の間にテレビを通して君臨する巨大な存在へと変貌していく。最早漫才師ではなくなってしまったのだ。

如何であっただろうか。日本プロレス界の英雄と東京漫才界の英雄である両者には33歳の時に大きな転機が訪れているのだ。そう考えると、現在32歳の僕は来年(2025年)が楽しみになってくる。これから訳半年後に33歳の誕生日を迎える訳なのだが、僕にはどんな転機が待っているのか?と楽しみで仕方がないのだ。あるいは凡人の僕には転機なんてものは一生訪れないのかもしれないが。


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