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6.半吉、ポエマー化する

5月18日
この日からリハビリが本格始動した。言語療法、歩きを中心とした理学療法、手指を中心しとした作業療法を行ってもらう。

この時点で、腕、手指は無反応。足は膝がくがく、車椅子。手すりを持ってギリギリ一人で立てるくらいだった。言葉は話せるが、吃りがきつい。言いたい事はあるが、それを表す言葉が思い出せない。話すのに時間がかかる状態だった。

この日は土曜日だったが、平日と同じようにリハビリがあった。しばらくすると曜日の間隔は消え去っていった。

この日は土曜日だったので、やっと子供達と会えた。子供達の方があっけらかんとしてたが、本当に嬉しかった。この子達のために生きなきゃ。早く回復しなきゃと強く思った。

5月20日
この日主治医の先生と初めて話した。脳のどこで出血が起きて、それがどんな場所なのか説明を受けた。運動や言語、緊張を司る部分に出血が発生しており、それに伴って障害が出ているらしい。そして指については動かない可能性すらあるらしい。

正直この辺りまでは、リハビリをめちゃくちゃやりまくって、全快つまり病気になる前の状態まで回復するつもりだった。

先生との話しと、その後調べたネットの情報だと、どうやら今回はいつもの様に行かないと思い始めた。段々取り返しのつかない恐怖が襲ってきた。

人生でそこまで本格的な挫折を経験したことない僕は、今回も当たり前のように努力をして、当たり前のように乗り越えるんだと思っていた。

そこから1週間ほど、セラピストさんにはどれくらいの確率で動くようになるのか。どうしたら動くようになるのかなど、質問攻めにした。

信じたくなかった。半身麻痺のまま残りの人生を生きていく事を。

リハビリ以外の時間はセラピストさんに教えてもらったストレッチや筋トレ、言語療法のプリントなどを行なった。とにかくやれることを全てやろうと思った。

5月28日
この日、病気になって以来初めて右の指が動いた。動画を撮って色んな人にメールで送った。

罹患後、初めて動いた右手(34)

今にして思えば、ただの腫れぼったい手が映ってるだけだ。この時の僕が指を数ミリ動かすために、声が出るくらい体全体に力を入れないといけなかった。

この週、転院後落ち着いたタイミングで見舞いに来てくれる人がたくさんいた。歩けないし手が動かない、言葉も上手く話せない状態の僕が人に会うのは辛かったが、自分を心配してくれる人達を無下にしてはいけない。

倒れた経緯や今の状況を、妻にも手伝ってもらって説明してもらった。何だか恥ずかしいような、秘密を曝け出したようなすっきりした気持ちになった。

今でこそ笑って対応できるが、当時本当に辛かった言葉がいくつかあった。もちろん皆様勇気づけるために言ってくれてるのは百も承知だ。感謝しか無い。ただ当時のメンタルの僕からすると、目の前でバルスと言われると同義だった。

できれば今後若年層の脳卒中当事者に声をかける日があれば、参考にして欲しい。

・若いんだから、ちゃんとリハビリしたらすぐ良くなるよ
まずちゃんと、がわからない。すぐ良くなる、が一番わからない。すぐ良くならなかったら僕の努力が足りないことに。骨折の時はこれで合ってると思う。

・リハビリちゃんとやらないと、手固まるよ
ちゃんと、がわからない。脅しが理不尽。村の言い伝えみたい。

・知り合いは3回なって平気だから、大丈夫
あと2回もなる可能性を聞きたくない。大丈夫は何にかかった言葉なんだろう。

当時はそんな悪態をついてしまうほどのメンタルだった。中にはこの病気になって怒りやすくなる、よく喋るなど性格まで変わってしまう人もいるそうだ。

僕は元来、口に脊髄を生やしたような人間だったのでよく喋り、いつも何かシュールな一言を探して暮らしていたからなのか、なぜか常に自信満々だったので、楽しそうと言われてきた。

そんな僕がこの時は、冗談の一つも言えないほど凹み、卑屈になって家族には謝ってばかりだった。五体満足な自分の夢を見て、病室で起きて泣いた。何回も泣いた。

この備忘録を読んでる方は、なんだこの鬱展開。辛い。と思われるかもしれない。でも本当に5月〜7月上旬までの時期は、僕の人生史上最も落ち込んでいて、毎日悲しげなポエムを家族に送るくらい暗黒時代だった。

これを書いている8月時点では、驚くほど立ち直っている。なぜこんなどん底から立ち直ったのか。今後順に書き記していく。なのでとりあえずこの読み物の最後はハッピーエンド予定なので、安心して読んでもらいたい。次回に続く。


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