今日のもやっと#2
寝る前になると今まで言語化されてなかったものがうわ〜〜これか〜〜となってしまうのはなんでだろう。
寝てしまうと忘れてしまいそうなので、脳内で暴れている言葉たちを束ねていこうじゃないか。
察することと空気を読むことは違うことなのでは
ある出来事をうむうむ考えていたら、「あ〜自分察することはできても空気を読むことまではできないんだな」と気づいてしまった。特に議論の場での空気を読む能力は大きく欠如していると思う。
というのも、先日自分よりも30歳ほど歳が離れた方と初対面でお話しする機会があったのだが、会話の締めくくりに「気が強いねえ〜。面白い」と言われたのだ。
「面白い」と評価していただけるのはとても喜ばしいことなのだが、「気が強い」という言葉はどうこねくり回しても自分の中に棘として残ったままだった。
確かに、お話しをしているときに相手の内容に質問をしたり持論を話したりした場面があったが、それは私の中で「対話」の一部なだけで「気が強い」と言われるほどではないと思っていた。(もちろん表情や仕草、持論の内容がそう思わせた可能性もある)
しかもわりかし幼少期から、人がどう思っているのかを察することは苦ではなかったため、自分は察することもできるし空気も読めるんだ。と思ってた。
どうも納得できず、ささった棘を突いているうちに気づいてしまった。察することと空気を読むことは違うのではないか。
これも持論だが、察することは感じるところまでだとすると、空気を読む、ということは感じたことを実際に行動に移すまでのことをいうのではないだろうか。
今回のを例に出してみると、「こう言って欲しいんだろうし、こう言うべきなんだろうな」と気づいてもいたし、傾聴する立ち居振る舞いが求められているのだろうと察していた。そこで空気を読むのであれば、実際に相手が思っていることを伝え、頷いたり同意するなどの傾聴の立ち居振る舞いをするのだろうが、わたしはそこまでしなかった。
正解を知っていながら、赤点ギリギリを取る行動をしたのだ。
なぜ正解を知っていたなが行動をしなかったのかの解は明確で、舐められたくないし、自分を消費されたくないから。
なぜ私がその人の中で消費をされなければいけなのか。考える頭も、考えを発する言葉も、そして内容もあるのにそれを押し殺して消費をされるのは私にとって屈辱である。
とはいえうまーく人生を生きる人は空気を読むことが得意なのも知っている。多分、これが大人になるということなんだろうなとも思う。
ただ私は世間のなかで正解があったとしても、そこに抗えるほど強い軸を持った人間になりたい。もちろん、法の範囲で。
こういうの書いちゃうところが気が強いと言われるだろうな〜。って思った方。間違いない。