顔と劣等感がもたらす人生 来世に期待ではメシがくえない今世のために
1、ふたりの暗殺者
一人目
2024年7月13日午後6時15分(日本時間2024年7月14日午前7時15分)ごろ、米ペンシルベニア州バトラーで行われていた集会で演説中のトランプ前大統領(78歳)が男に銃撃された。トランプ氏は右耳を負傷したものの命に別状はないが、集会参加者の一人が死亡、二人が重傷を負った。
銃撃はトランプ氏から130メートル離れた建物の屋上からの狙撃によるもので、シークレットサービスによって射殺された銃撃犯はトーマス・クルックスという20歳の青年だった。
すぐに顔画像が公開され、その人となりについて職場や学校の同窓生などの見解が紹介された。
学校を卒業したかれは介護施設で食事補助員として働いていた。施設担当者は取材に対して「何の心配もなく仕事をこなしていた。採用した際の身元調査も問題なく、我々はショックを受け悲しんでいる」と回答したそうだ。
学校時代は成績優秀で表彰されたことがあったが同窓生らの見解にはばらつきがあった。
変わった所はなく、おとなしく親切だったという見解がある一方、いつも一人でいて、いじめられていたとの見解もあり、果然後者(いじめられっこ)の像がクローズアップされて報道された。
公開された卒業写真の印象は、同窓生らが語った人物像を裏付けるものだった。
下がりすぎためがね、にきび、平たい鼻、(歯科矯正の)マルチブラケット、しゃくれ顎、犯行時は肩にかかる長髪だった。率直に言って、いかにもなパーツといかにもな属性をもった、さえない男だった。
二人目
wade wilson/ウェイドウィルソンとはマーベルのコミックおよび映画デッドプールにおける主人公の名前である。
癌の治療と引き換えに人体実験の被験者に志願した結果、不死身となるも顔面が焼けただれてしまったため自作の赤タイツで姿を隠しながら宿敵を追う元傭兵で、ライアンレイノルズが演じている。
しかし現在(2024/07)アメリカで話題のwade wilsonはデッドプールの主人公のことではない。偶然にも同じ名前をもったフロリダ州フォートマイヤーズ在住の殺人犯である。
このウェイドウィルソン(現30歳)は、2019年にケープコーラルの女性2人を残忍に殺害した罪で収監された。2024年6月、ウィルソンはフロリダ州リー郡にて第一級殺人罪2件を含む6件の罪で再度有罪判決をうける。審議の結果、陪審はウィルソンを殺人罪で死刑囚監房へ送ることを決定した。来たる2024年7月23日、死刑判決が下されるかどうかは裁判長の判断にかかっている。
判決を控えた今、法廷でのウェイドウィルソンがアメリカのメディア、tiktokあるいはsns等に出ずっぱりになっているのである。
注目の理由は、かれの容姿にある。容貌魁偉といっていい。顔面に独特なタトゥーが入っているのもさることながらハンサムでスーツはキマっており、なにより泰然自若としている。すこぶる落ち着いており堂々としている。弁護士にささやく姿などはまるで映画ゴッドファーザーのワンシーンのようだ。悪党だが、うける見た目をもち、だからこそメディアも過度に取り上げ、sns上にはsave wade wilsonのタグが舞っているのである。
2、顔が先にくる
健全な人生論において顔は後にくる。
育ちがあり人格ができて、やがてその人となりに見合った顔ができあがるとされ、顔は「心を映す鏡」だと説明される。それがまちがいでも顔のことはタブーであり積極的な否定はされない。
しかしご存じのように顔は常に先にある。
まず顔があって、その顔がもたらす交友や世界や人生があって、人格は顔がもたらした限度内のアクセントに過ぎない。
(憶測に過ぎないが)物心ついたトーマスクルックスが最初に知ったのはじぶんの顔がもたらす現世のわびしさだった。かれは仕方なく勉強に熱心なふりをし、射撃に熱中するふりをし、政治に関心のあるふりをし、その顔でやることができる世界を満喫しているふりをしながら、その間にじわじわ歪んでいったとみるのが妥当だろう。
一方ウィルソンはそんなコンプレックス=劣等感とはまるで無縁だった。
3、劣等感という病
顔がその人生に及ぼす影響力には差がある。鍵となるのはコンプレックス=劣等感であり、人生と顔は三通りの関係性で大別できる。
①顔が悪く(そのことについて)劣等感がある
②顔が悪いが劣等感はない
③顔が悪くない
問題となるのは①の場合だけだが、ただし「顔が悪い」とは不細工という意味だけではない。自意識過剰も①のうちである。
わたしの顔は人から嫌われる──という疑心、それを裏付けた過去の出来事、公共でじっとこちらを見てくる見知らぬ人──そういった諸々から形成されたじぶんの顔にたいする劣等感に取り憑かれていることも「顔が悪い」と同義である。
日常、大人たちは容姿のことなど気にしないそぶりで生きているが、①の人間は、たびたびじぶんの容姿のことを思い出して、うつむいたり、顔をそむけたりしてみる。とりあえず、社会でじぶんの顔が及ぼすであろう嫌な影響から逃れようと試みる。顔に劣等感をもつ人間は、向かい合わせになる列車の座席と牛丼屋の座席が苦手だ。
だが大人は劣等感を隠して生きている。露呈するとモラトリアムなどに分類されてしまうことがあるからだ。なんにせよおじさんやおばさんの劣等感は見苦しい。
職場(企業)は劣等感を人物の査定に加えないが、劣等感をもっている者にたいしてはどんなhowtoもいかなるコンサルも無駄だ。
劣等感に苛まれた人間は、人材育成のばかばかしさを知っている。「おれ/わたしの問題はそんなことじゃないんだけどね」と嘆息しつつ、仮初(かりそめ)のじぶんを設定しながらセミナーに講じる。
つまり劣等感に苛まれた人間の能力はつねに劣等感の錘付である。が、対外的にそれは言い訳にしか聞こえないので公では言わない。言わないし普通に生きているのだから何の問題もない。
しかし顔は如実に厳格に社会におけるわたし/あなたの限界を区画する。わたし/あなたが生きていい範囲を内示してみせる。できること、居ていい場所、やっていいしごと、入っていい店、つきあえる仲間や恋愛対象。事実上わたしたちは「顔の限界」に副って生きている。
わたしは若い頃淡泊な顔立ちを嫌ってメガネをかけた。視力が落ちたからというより、じぶんの情けない顔にメガネという言い訳がほしかったからだ。
新型コロナウィルスでマスクをかけられるようになったのは顔に劣等感をもっている者にとっては僥倖に他ならなかった。
わたしは今メガネをしマスクをかけ帽子をかぶって外出する。その風貌が「心を映す鏡」だと言うなら、なるほどまちがってはいない。
ふたりの殺人者は劣等感にさいなまれた者と、劣等感など少しも感じたことのない者の対比である。
わたしはクルックスを哀れだと感じ、ウィルソンには魅力といって過言でないものを感じた。不謹慎だがそれが現実世界の回答である。人間は見た目である。見た目は繕えないが、性格は繕える。
4、解決策
顔が問題であれば整形が根本的な解決策になるはずだが整形は過去や世間体や属性の一部を捨て去ることになる。また若いうちに施術するものであり、いずれにせよ一般的な方策ではないのでここでは取り扱わない。
顔に劣等感をもった人間の解決策というか、現世との折り合いの策は、ひとりで生きていける道をみつけて生きていくこと、もしくはお金持ちになること。両方なら、なおいい。
拍子抜けするような策かもしれないが、そのことをできるだけはやく始めたほうがいいと明記しておきたかった。
はやく始めるとは、誰かあるいは人と交わって生きることが無理だということを、できれば20代30代ぐらいで遅くとも40代で気づくのが望ましい。
世間に受け容れてもらえない顔であることをできるだけはやく察知して、こつこつと続けられることを見つけてやっていく。その時、弊害となるのは「期待」である。きっとこの世界のどこかにわたしを受け容れてくれる場所がある──という期待である。期待して世を儚んで病まないうちに、はやい段階で現世への期待をやめてとっとと隠遁生活へ向かって突き進め、という話である。
わたしは日本でアニメが発達したのは日本人の顔にたいする劣等感のあらわれだと思うことがある。よって拙文が、必ずしも特殊な人間に向けられたもの、とは思わない。