EASY TO REMEMBER (ショートストーリー)
この日、私は友人たちと合流してビッグバンドジャズのライブステージを
楽しむためにDマイナーセブンス というライブスペースへ向かっていた。
そこは初めて行く場所ではあったが、道は事前にあたりを付けて置いたので、時間には余裕があると考えていた。
しかし、まったく予期せぬ事態に飲み込まれることになった。
この坂道は初めてではない、以前からずっと知っている道だと分かっている。
暗く人通りのない坂道を登ってゆく。街灯は無く、辺りの住宅の明りがかすかに届いているだけだ。坂の先には何があるのか、思い出せない。また来てしまったという既知感と不安感がこみ上げてくる。
坂はこの先、急角度で右に折れて、さらに上っていくはずだ。
携帯電話に友人からの着信。 「もしもし、今どこ?」 「地下鉄を降りて向かっているところ、もうすぐ行くからよろしく」と私。地上に上がり、調べておいた店の方向へ歩き出す。
現役で働いていた頃は何度も歩いた繁華街なので土地勘はあるが、もう大分来ていないので記憶もあやふやだ。むしろ初めて来た街に迷い込んだ気分だ。
店の方向へかなり歩いてきたが、「Dマイナーセブンス」の看板がみつからない。
スマホにスクショしておいたアクセス案内を確認してみる。
目印表示が無く、はっきりしないが、なんとなく行き過ぎた感があり、少し戻ってみる。歩いてきた道と並行して道があるので、そちらに回りこむ。少し戻ると3階建ての雑居ビルを発見する。
「あった、ここだ」。2階に「ピアノラウンジDm7」とある。友人を少し待たせてしまった。
ラウンジの扉を押す。思ったよりも狭い感じだが奥にグランドピアノがあり、きゃしゃな女性がピアノに向かっている。バーカウンターには店主と思われる中年女性。
「いらっしゃい」とつぶやく様な声で迎えられる。あれ、まだ客はいないぞ。
「ここは今日ライブ会場になっているⅮマイナーセブンスですかね。」 と私。
「ここはピアノバーなので、それしかやらないわ。同じような名前の店があるって聞いたことあるので、そちらかも」 「その場所って分ります?」 「有名らしいけど、私は良くわからないの」 「分りました、すみません」 店を出ようとすると、なじみのある曲が聞こえて来た。ピアノの方を振り返ると、きゃしゃな女性がピアノで「Easy to remember」を弾き語りしている。
再度、携帯電話に着信 「どうしたの、どこにいるの」「悪い悪い、どうも店を間違えたみたい、もう一度確認してみるけど」と私、「出口5Bを出て真っすぐ、駐車場を横に見て坂を上がるとすぐだから分ると思う、もう飲み始めているよ」、そうか5B出口か。
地下鉄に戻ってみる。駅構内の案内版を探すが出口5Bが見つからない。駅員に聞ければ良いのだが、最近の地下鉄には駅員がいないことに気が付く。
再度スマホでDm7を検索した結果、やはり ピアノラウンジDm7 が表示される。「何かがおかしい」と思った時、再び着信。「どうしたの、もうライブ始まるよ」
「それが変なんだ。スマホで検索すると別のDm7に連れていかれるんだ。」
「もう一度説明するね。出口5Bを出て真っすぐ、駐車場があって坂をそのまま進むとホテルがあるから、そこで左にDマイナーセブンスの看板が見つかるはず。」
駅の案内版で出口4,5はかなり離れたとこにあることが分かった。とりあえずそこへ向かってみる。地上に出るとコンビニがあり、その向こうに上り坂の道が接している。
道に沿ってビルがあり1階は駐車場になっている。
「ここだ!」 確信を得てその坂道を登ってゆく。
しかし、その坂道は次第に暗くなり、T字路となった。右側が上りなので、そちらに向かって歩き出す。道は左に折れ、さらに人気のない暗い道となった。
「こんな所にライブスペースがあるとは思えない」、一体どうなっているんだ。
暗い坂道を登っている。この坂道は何度も来たことを知っている。両側の家々は、高い盛り土の塀の向こう側にあり、道からは殆ど見えない。おそらく塀の向こうの家屋の照明がかすかに届いているのだろう。坂道は思った通りに右に大きく曲がりさらに上ってゆく。やはりまた来てしまった。しかし、引き戻すわけにはいかない。先に進むしかないのだ。
暗い坂道を右に折れ、さらに上って行く。やはりここだ。不安で胸が一杯になる。坂の先にぼんやりと、しかし確実に赤い光が灯っている。次第に記憶がよみがえってくる。
坂道が二股に分かれる角にある交番の赤い灯火だ。真っ暗な中に赤い照明だけが辺りを照らしている。正面の庇の下に球形の赤いガラスシェードがぶら下がり、その中に電球が不安を増殖するように灯っている。それは幼い頃に見た夢の光景そのものなのだ。私は恐れおののき、ただ赤い灯火を見ている。
一体何が正しい情報なのか。この迷路となった街の中をさ迷い歩く私は、どこへ向かっているのか。
アジア系の観光客の一団が大きな声を上げながら歩道を占領している。至るところに坂があり、その先は暗く途絶えている。見覚えのある通りに戻ってきた。
そうだ、その先はピアノラウンジDm7がある路地だ。雑居ビルの階段を上がると古風な扉の向こうから、かすかにピアノの音が聞こえてくるはずだ。
地下鉄の改札の横に靴修理のカウンターがある。ここの店員なら分るだろう。「すみません。出口5Bってありますかね」と私
「いや、この辺の出口名はそういう名称ではないですね。ABCDだけで表してあります。ひょっとしたら・・隣の駅かもしれないですね。」
そのとき突然ひらめいた。AK駅 とAK見附駅を混同したのだ。
アルトサックスのアンサンブルがきらびやかに流れを作り、トランペットのソロがそれを追いかける。そしてソロはテナーサックスへと引き継がれる。ドラムの強烈なカウントに誘導され、曲はクライマックスを迎える。全ての楽器が1つのうねりとなって歓喜にむせび、ピアノがエンディングを決めに入る。ホーン奏者達が、まだ終わらないぞとばかりハイトーンで追いかける。ビッグバンドの醍醐味はこれだ、と誰もが一体感を共感する瞬間だ。
階段を上がる。赤い照明が薄暗く通路を照らしている。古風な扉にピアノラウンジDm7と書いてある。扉を開けるとバーカウンターがあり、中にはいつものママが立っている。スピーカから、なじみの曲「Easy to remember」が流れている。思い出すことよりも忘れてしまうことの方がずっと難しい、という切ない歌詞のバラードだ。「アン・バートンだね」と私。
「あら、お帰りなさい、貴方のお気に入りを聞きながらで待ってたわ」
Fin
<作者あとがき>
体験には事実体験と心理的体験があり、ある時の体験はこの2つの体験が現実として記憶や印象に残るのだと思うのです。なので、昔の思い出が友人の記憶と違っていたり、時には心理的体験の方が大きく、トラウマのようになったりするのでしょう。
当初それを強調するために、章立てを敢えて時系列に並べないことも考えましたが、あまりにも難解になってしまうので、心理体験の章を随所に挿入するに留めました。この部分は客観現実ではなく、極めて個人的な主観的現実として語られます。解析してみてください。