息子の特性を受容出来るまでの話
【まえがき】
息子は自閉症スペクトラムだ。
ついこの間まで「自閉症スペクトラム疑い」「おそらく何かの発達障害」と、言われたまま不透明な状態で止まっていたのだけれど。先日受診した小児発達外来にて「先生、やっぱりこの子、自閉症スペクトラムで間違いないですよね?」「ん~、まぁ、そうだねぇ」的にマイルドに確定診断がついた。
「あの、あなたのお子さんは…。」
「嗚呼、私はこれからどうしたら…。」
みたいな雰囲気はなかった。親としては絶対そうだと思ってきたし、単に息子の性質がカテゴライズされただけで息子は今までと変わりなく「息子」だから。とは、いってもここまで何の葛藤もなかった訳ではないので、その話を書いていきたい。
【0~1歳頃】
34週で早産。発達はゆっくりなものの、1ヶ月遅れで首も座り、ハイハイもし、1歳2ヶ月で初めての言葉「でいしゃ(電車)」と、話す。ここまでは取り立てて、息子の「他の子にはない違和感」を感じることはなかった。
【1歳~2歳】
1歳4ヶ月頃に歩きだす。ここからが地獄だった。親の制止なんてお構いなしに大好きな乗用車に向かって猛ダッシュ!側溝の金属の蓋の上を延々歩き続けたり、公園に行っても遊具などには目もくれずに外壁に触れながら公園の端から端までをひたすら往復。
制止はもちろんする。するけどこちらの声なんて一切聞いてもいないし、私を視界にすら入れてくれない。
おかしい。明らかに何かが違う。
発語も「でいしゃ(電車)」以降、全く出る気配もない。絵本は言葉の発達によいと聞いた私は息子に絵本を与えてみた。確かに大好きな乗り物の絵本をかじりついて見てくれた。だが、本一冊を読むのではなく、大好きな絵本の大好きな1ページを、繰り返し繰り返し「読め」とせがむのだ。1日100回近くはせがまれたと思う。これには気が狂いそうだった。私はエジソンの母のようにはなれないと悟った。
乳児検診でも明らかに他の子とは違う息子の姿は「要観察」対象になっていた為、住んでいた市の発達支援教室に通っていた。
そこを牛耳る心理士の先生が「親の愛で子は変わる」みたいな考え方の人で、「絵本?100回でも200回でも読んであげて、こだわりに付き合ってあげることが大事ですよ。」的なことを言われ、私は完全に取りつく島を失った。
家事も自分の時間も全てを犠牲にしてこの子の為に「してあげること」が愛なのか、そこまでして、本当にこの子が変わっていくのか。ネットで様々な情報を調べては、余計に悩み苦しみ分からなくなっていった。ちょうど夫との関係も悪くなっていた頃で、私の暗黒時代といっていいと思う。
【2歳~3歳】
一応未熟児だった息子は「NICU出身ベビーの集まり」のようなものに参加していた。生きられるかギリギリの早産を経験したママさんも多々おり、私はそこで「療育」の存在を知った。
「作業療法」「言語療法」「児童発達支援事業所」等々、発達を促すアプローチを行ってくれる場所があると知り、今度はそこを調べ倒した。
どうしても就学前のお子さん優先にはなるので乳児の段階では半年待ちでの受診になることも少なくなく、けれども必死でそこにしがみついた。
私には無理だ、
無理なんだよ。
しかるべき専門家に任せることが「愛」だと信じ、英才教育かという程、とにかく「良い」と思われるリハビリや療育に申し込みまくった。
ちょうどその頃「療育手帳」を取得することが出来た。住んでいた場所は手帳を持っていたところでそこまで大きい恩恵はなかったのだけれど、療育へ申し込む際の説明が格段楽にはなった。「療育手帳B判定の男児、2歳」のように伝えるだけである程度分かってもらえるからだ。
糸口は掴めた。
けれど、やはりリハビリや療育に付き添って改めて気づかされる「息子の特異さ」に頭を抱えた。その頃の私はまだ息子を完全に受容など出来なかった。
【3歳~3歳半】
今まで息子の発達に頭を抱え、息子のことしか考えていなかった私に転機が訪れる。
夫が為替取引に手を出し、気づいたら家中のお金が消えていて、依存性状態に陥った夫が明らかに「おかしい人」になっていた。
息子の発達云々で市のこども課や福祉課に繋がっていた私は「息子のみならず、父親までもこのような状態になりどうしたらいいか分かりません」と、弱音を吐いた。
これはまずいと思った職員の方々が様々気を利かせて下さり、警察が来たり凄まじい修羅場状態に陥った後、ようやく離婚届を提出でき、私は職員の方々の計らいでシェルターに逃げることとなった。
逃げる前、息子の小さな小さな手を見つめ、
仮にこの子がどれだけ重い自閉症でも、この手を絶対に離さないんだ、と心に誓った。迷いに迷っていた私であるが、このような事態になり少しだけ腹がくくれた気がした。
ちなみにプロフィールに設定している写真は、その決意を込めて撮った私の大切な写真である。
シェルターに逃げた日、私の心は息子への申し訳なさでいっぱいだった。父親から引き離し、慣れた家を突然追われ、着の身着のまま大好きなおもちゃ達も全て持ってはこれず、私にはなけなしのお金しかない。
けれど息子は、逃げたシェルターの台所に置かれていた袋ラーメンを食べたいとせがみ、食べたらすぐぐっすりと寝てしまった。
今まで息子のマイペースに振り回され、周囲と同じことが出来ない息子に本当にイライラしたけれど、環境に振り回されず「自分は自分」として生きてくれている彼の特性が今、この状況において、ここまで有難いことだとは…。
この人生があって、
この息子なんだ。
これは必然だったんだ。
これで良かったんだ。
これがこの子の良さであり、
この子の強さなんだ。
その日初めて、私は息子を受容することが出来たように思う。
【あとがき】
逃げたシェルターでまる1ヶ月生活をし、その間息子はひたすら見慣れない電車や好きなものを探してはケタケタ笑ってお菓子を食べて暮らしていた。
その笑顔に支えられ、私は地元である京都に戻り、息子は保育園に入園。相変わらずヒヤヒヤさせられ頭を抱え、無事に今は小学生だ。
あれだけ話さなかったとは思えない程、生意気な表現を使うようになったが、相変わらず会話は出来ない。
そして吐きそうな程読んだ甲斐があったかなかったかではあるが、無類の本好きにはなった。今は1人でお気に入りのページを100回近くリピートしており、私は側で「ああ、ハイハイ…(またか)」と適当に相槌を打っている。
発達障害を受容出来るのは並大抵じゃない。私は3年はかかった。けれど石の上にも三年、根気よく関われば「その魅力」に気づくのも事実だし、それも何の縁なのだ。
発達障害を抱える人と関わってしまい、しんどい人もいると思う。自分を守るために逃げるのも手だ。だけど、向き合えば向き合っただけ自分自身得るものもあるということを、私は伝えたいのだ。
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