小説 (仮)被災者になるということ~能登半島地震より 第77話

3月17日 日曜日

朝6時頃に両親がひそひそと話している声で目が覚めた。
みんなもう起きて、布団は畳まれていた。
父と母は眠れたのだろうか。少なくとも父は眠れていないだろう。
とりあえず服に着替えた。
父と弟は家を出る時に黒っぽい服を持ってきていて、今日はそれを着ていた。

備え付けの一人用のほうじ茶のパックを湯飲みにいれ、ポットのお湯を注いだ。
朝ご飯におにぎりを食べた。
弟が死んだ人にあてて書く一筆箋のような紙と筆ペンがあるのをみつけた。
みんなで書き、棺桶にいれた。私は少し悩んで、今までありがとう、と書いた。それ以上書けなかった。
母は何を書いたか誰にも見せなかった。
弟と母はコンビニにいってお布施用の袋を買い、そのついでに、祖母のための大福を買ってきた。

8時過ぎにNさんがやってきた。
父が支払いのことと、新聞のお悔やみ欄の話を聞いた。
お悔み欄に載せようと思ったタイミングで、セレモニーホールに電話をくれればよいということだった。便利にできているものだ。
支払いはその場で済ませた。私も3分の1を出した。部屋を片付け、荷物を弟の車に乗せた。
出棺、火葬したらそのまま帰れるということだったので、忘れ物がないように、気を付けて何度も見た。

8時半からお棺に花やお菓子を入れた。
用意された花は菊ではなく、トルコ桔梗やカーネーション、スターチス、ヒペリカムなど、普通の花束で使うようなカラフルな花だった。
値段の問題かもしれない。母はカーネーション、とつぶやき、そっと入れた。母の日を想ったのだろう。
ヒペリカムを見たとき、私は自然と、祖母が朝市で野菜や花を売っていたことをNさんに話していた。
ヒペリカムは売るために、家に植えてあったのだ。
Nさんは10年ほど前に朝市に来たことがあると言った。。
「その時に、会っていたかもしれないですね。」
私はW市では花屋さんだって開いているかどうかもわからないくらいなので、こんな素敵なお花を入れてもらえてよかったと伝えた。
ピンクの棺桶に、ピンクや紫の花に囲まれて、化粧をしている祖母がいた。
死んでからきれいにして、生きているときにしてあげていない。
今更どうにもできない。
これで最後のお別れになります、とNさんは言った。
私は祖母の手を握った。ひんやりとしていて、温かくなる気配は全くなかった。
涙が流れ、しゃくりあげた。
棺桶は閉じられ、2つの市の合同火葬場へと向かった。
またNさんが先に走り、弟が車でついていった。合同火葬場は海の近くの高台にあった。Nさんは火葬場の人と話し、棺桶を降ろした。
Nさんが帰るとき、お世話になりました、ありがとうございましたと礼を言った。

合同火葬場の入り口は広々としていた。
案内された最初の部屋で、手配してもらったお寺のお坊さんがお経をあげてくれた。
父がそっと火葬場の人に聞くと、お坊さんはもう帰るということだったので
お坊さんにお布施を渡した。
それから火葬炉のある所に移動した。火葬炉は8基くらい並んでいた。
フォークリフトのような機械で棺桶が運ばれて行き、3番の札を父がもらい、ロビーに移動した。
Nさんから聞いていたように、早い時間なので、私たち家族しかいなかった。2階にマッサージチェアがあるのも聞いていたので、2階に移動した。
ピアノと波の音が入っている音楽が流れていた。
2階は大きな窓があって、松林が見えた。雨の予報だったが、まだ降ってはいなかった。
絵や九谷焼の作品も飾られていたので、見て回った。
母と弟がマッサージチェアを使った。誰でも使えるようだった。
私はマッサージチェアが少し苦手なので、ただ座っていた。
でも体が楽だった。
焼き終わる15分くらい前に1階に降りた。ソファに座って、鞄に入っていたペットボトルの水を少し口に含んだ。
母が自販機でお汁粉を買おうと思ったら、売り切れで、父が最後の一本を先に買って飲んでいた。
職員さんが、焼き終わりました、骨収めの準備をするのでもう少しお待ちくださいと言いにきたので、ペットボトルをしまって待った。
数分後に呼びに来たので、部屋に移動すると、台のまま運ばれてきた。
焼きあがったばかりの温かい状態で、冷たかった祖母が
温かくなって帰ってきたことにおかしみを感じた。
ねじやホッチキスがたくさんあったので、驚いた。
祖母は手術もしていないし、体に入っていたものではない。
ちょっと考えて、このホッチキスはお棺のですか、と聞いた。
「そうですね、ホッチキスは布を留めるためで、ねじは木のところですね。」
職員さんが電磁石を使って、それらを避けてくれた。
骨の説明もしてくれた。
緑色になっているところは、金属と化学反応をおこしたところで
体の悪いところというわけではないということだった。紫など他の色になることもあるそうだ。
足のほうから骨箱に入れて行った。
宗教によると思うが、能登では四角い木の箱に入れる。
大きな骨は父が割って入れた。骨の丈夫な方だったんですね、と職員さんが言った。
骨を拾いながら、父がペットもここで焼くんですか?と聞いた。
ペットは別のところがあるんです、と教えてくれた。
父がW市では、ペットも同じ場所で焼いたという話をした。
すると、職員さんが、W市とここは同じ会社の系列なので
W市の火葬場が使えない間、ここまで来ていたということを教えてくれた。
着の身着のままで来られていました、と言った。
今の私も同じだ。こちらでも、被災者に対する小さな気配りが感じられる。
きれいに骨箱におさまり、カバーをかけられ、さらに風呂敷で包まれた。
埋葬許可証というものももらった。母が骨箱を持った。
職員さんに挨拶をして外に出ると、ほぼ11時頃だった。
車に乗ってからすぐに少し雨が降り出した。
北陸道を通って金沢に向かった。
金沢を通り過ぎ、牛丼チェーン店に入った。精進も何もないが、それについては誰も何も言わなかった。
私以外は迷いなく決まったのだが、私が決まらなくて遅くなった。結局シンプルな牛丼セットにした。
食べると体が温まった。

菩提寺にお骨を持っていくのに、お金とお菓子があったほうがいいだろうというので途中でスーパーによった。
お布施の袋とお菓子を買った。母が食後のデザートに大福を買った。
母は食欲があるようだった。
全線をのと里山海道で帰った。
走るとNHKの朝ドラの曲のなるところがあるのだが、微妙な音になっていた。
横田、越の原の辺りもひどいが、穴水を過ぎてからが一番ひどかった。
道がくずれて落ちていたし、柵だけが引っ張られて宙に浮き、残っているところもあった。一番新しいはずの箇所が、ボロボロだった。
骨箱は最初温かかったけど、もう温かくなくなった、と母は言った。

3時半頃にW市に着いたのだが、お寺には5時くらいと言ってあったので
いったん家に戻って、祖母の法名を探した。
祖母が京都に旅行をして、もらってきたものがあったそうだ。
お寺の企画するそういうツアーがあるのだ。でも見つからなかった。法名をもらうために数万いるということだった。せっかくの数万が無駄になってしまった。
少し早いがあきらめて、お寺に向かった。

お寺では玄関にキャンプで使うような折り畳み椅子を出してくれて、座って話した。お寺の中も入れる状況ではないのだった。
日程表をくれて、法名もくれた。
四十九日のころには、お寺に入れるようになっているのではということだった。お菓子とお布施を最後に渡して帰った。
私は、私の家で降ろしてもらった。

家に帰ると息子はいつものようにゲームをしていた。
息子と夫はいつもと変わりなかった。私はあったことを話した。
明日からの旅行のために、保険証とマイナカードのコピーがいるというので
コピーの仕方を教えた。他にも旅行の荷物の確認をした。
もう、家で生活できるようなので、家族でいつ避難所を出るかを相談した。
荷物を運ぶ都合から、24日の日曜日とした。

避難所に戻った時、本部のSさんに相談にのってもらったお礼に行った。
そして、祖母が二次避難先で亡くなったため、母が今日からこの避難所に戻ってきたことを伝えた。
Sさんは残念そうな顔をした。
それと、私たち家族が24日に家に戻ることにしたという話も伝えた。
「XXくんも?」というので、ちょっと冗談交じりに
「置いてったほうがいいですかね?」と言った。
「いやいや、日常に戻ってください。」

夜はいわし缶入りカレーだった。
夫は弁当が売り切れていたといって、おにぎりを食べていた。
母は父と同じランチルームの部屋に暮らすことになった。
段ボールベッドの余っているのはないようだった。
歯磨きをする場所や、レンジやテレビなどを案内した。

義母に電話をし、帰ってきたと伝えた。
「お母さんは大丈夫?」
「大丈夫です。」
「お母さんの気持ちを思うと、悲しくなってねぇ。」
「母は悲しいというよりも、ショックが大きすぎて、そういう感じではないですね。」
「亡くなってすぐは、そうかもしらんねぇ。」

二日ほどほとんど眠れなかったので、早い時間に寝つくことができた。
延長ボタンを押して、また眠った。

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