小説 (仮)被災者になるということ~能登半島地震より 第70話
3月10日 日曜日
朝はドーナツとポテトのスナック菓子の残り半分にした。寒かったのでスープも飲む。
義母に電話をし、一緒にスーパーにいく約束をする。
これは地震前からやっていたことだ。
ちょうど一年ほど前の冬、義父が家の塀で車を擦ってから、車を手放してしまっていたのだった。それ以来、土曜か日曜には義母と一緒に買い物に行くことにしていた。
会社に寄って、仕事に必要な機材を家に運び込む。
少し掃除してから、義母と一緒にスーパーへ行く。
義母が罹災証明書をコピーしてほしいというので、私は買い物前に、いったん家に戻った。
コピーして、買い物をすませた後、義母が女性二人と話しているのが見えた。職場の後輩だという。二人は義母が無事だったことを喜んでいて、にぎやかだった。
車の中で義母は帰ってきてよかったわー、いい日になったわーと上機嫌だった。
私は複雑な心境だった。
昼ご飯の配布時間になり、避難所に戻った。
玄関で同級生にあった。支援物資をもらいに来ていたようだ。
どうしてたのーと再開を喜んでくれた。
その同級生は個人商店で働いていて、再開する予定だと聞いていたのだが、急に再開しないことになったために仕事がなくなった、と言っていた。彼女はずっと家で生活していたそうだ。
今は仕事ないから、遊びに来てと言われたが、曖昧に返事をしておいた。
片付けは終わったのだろうか?
私の家はとても人を入れられるような状態ではない。平日は仕事、休日は片付けで、ゆっくりする暇もないし、行くことはないだろう。
仕事は無くなっても、地震前と変わらないようにみえる、余裕のある彼女がうらやましかった。
昼は弁当だった。
支援の職員に名前と部屋の場所と個数を聞かれた。
XXです、体育館です、一つです、というと、一つですか?と聞き返された。
隣にきているので、と横にいる夫を手で示した。
息子さんの分はと聞かれるが、後でくると思いますと伝えた。
息子がボランティアをしているからこそ、聞かれたのだろう。
しかし、よくわからなかった。何?3つ持っていかなきゃいけなかったのか?
そう思ったら、部屋についた途端、家に帰りたいと声にでた。
一人ひとつなのはわかる。名前をいうのも仕方ない。数が合わなくならないようにだろう。
でも、私にとっては、ただの昼飯なのに、こんなやりとりをしなくてはいけないのがつらかった。今までも数回あったし、ただの数回だが、私には負担で、帰りたいという気持ちになる。
気持ちが落ち込んだまま、弁当の蓋を開けた。弁当は見た目からして、とても高級だった。生の葉っぱや小さな陶器で仕切られていた。
食べるとどの料理も手が混んでいた。食材がしっかりしてて、薄味な分、素材の持つ力が感じられる。濃い味でごまかしたりしていない。
煮あなごが柔らかくて特においしい。
ローストビーフはいつも食べている安いものと比べ物にならなかった。
肉質が良く、濃厚な肉の旨味が感じられ、柔らかいのであっさりと消えていく。
店の名前を調べるとミシュランの一つ星の店だった。主人の人柄がいいとレビューにある。
普段は弁当を作ってないようだ。特別に作ってくれたのだろう。この弁当がいくらするかわからない。
おいしいが虚しく、哀しい。涙をにじませながら食べた。
支援のお金あってこそだし、もしかしたらその主人の支援かもしれないし、
本当に本当にありがたいのだが、私のひねくれた性格のせいだろう。
とても迷ったが、小さな陶器は3つとも記念に取っておくことにした。
人柄のいい主人に対する感謝の気持ちを忘れないように。
赤十字の職員が回ってきた。帰るから、全部の部屋を回っているという。
「お薬とか飲めてますか?」
「二人とも飲んでます、病院行ってもらいました。今までありがとうございました。」
避難所をでるときに支援職員がいたので、お疲れ様ですと言って通ったあと、サンダルから長靴に変えるのを忘れていたので一度戻った。
もう一度同じ支援職員の前を通ったが、こんにちはと挨拶された。
被災者の顔を覚えてはいないようだ。一週間交代らしいし、仕方がない。
一番最初に来た支援職員は関西らしい明るさで、積極的に励まそうとしていたようだが、被災者との温度差があった。それ以降交代で来た支援職員はあまり被災者とかかわらないようになっていた。
家について、夫と一緒に食器棚のつっぱり棒の付け替えをした。
食器棚には2007年の地震の後からつっぱり棒をしていたため、倒れずにすんだが、つっぱり棒自体が斜めになって駄目になってしまっていた。
食器棚の後ろは壁にくっついてずっと掃除してなかったので、この機会に掃除をした。お掃除シートが入るほどの隙間をあけて、つっぱり棒をつけ直してもらった。
指輪の質問が思ったより早く今日帰ってきていたので、注文を確定した。
中古の整備品なのだが、だからこそ、これを逃すと手に入らないという思いが強かった。
結局、物入りなのに、買ってしまった。非常時だから、今の私も正常ではないのかもしれない。
一度も使っていないバッグも棄てることにした。
福袋に入っていて、好みではないためにずっとしまいっぱなしだったものだ。売れるような値段のものでもないし、捨てるしかない。金具を取るのに時間がかかる。
他にも使わないバッグを捨てた。
お風呂を沸かした。
また、息子は入らないと言うため、私と夫だけだ。
湯船につかると、垢がたくさん浮いてきた。
しかし、まだ以前のようにゆっくりできる気持ちにはなれなかった。
夜はご飯と八宝菜(わかめいり、うずらなし)だった。
味はいつもの通りだ。
昼に買ったサラダも食べてお腹いっぱいになった。
父に水羊かんをもらった。
父が友達からもらったものだそうだ。これは再開した地元の和菓子屋のものだ。W市では冬に水羊かんを食べる習慣がある。
この和菓子屋さんの水羊かんは少し固めで小豆の味がしっかりしていて、とてもおいしいのだ。
お腹いっぱいで食べられないので、明日の朝、食べることにする。
朝ごはんが置いてあったので、2日分持ってきた。
いつもとは違う人がストーブに灯油を入れていた。Jくんのお父さんはいないようだった。
ネットをみてすごした。
空気清浄器が増えて、強で運転して少しうるさかった。夫もうるさいな、と言った。夜は弱めてほしいと思うが、言いに行くのも面倒なので
明日もうるさかったら言いに行くことにした。
3月だけど、まだ1月のような気がする。
3・11のニュースをよく見かけた。
しかし、津波の被害にスポットがあたっているように見える。
本当は津波以外にも報道されない辛いことがたくさんあったはずで、私が被災者になったからこそ、それがわかるようになった。
3・11の被災者の人が、能登に向けてメッセージを送っていた。
今はつらいでしょうが頑張らず、ふんばって、という言葉が、私の心に深く染み入った。
ふんばること。
現状から転がり落ちないようにすることさえ、被災者にとっては難しいことなのだ。3・11の被災者の人たちはそれを良く知っている。
マットレスがあって、さらにストーブをつけなくても良い暖かさだったので、今日もよく眠れた。