小説 (仮)被災者になるということ~能登半島地震より 第83話
3月23日 土曜日
雨が降っていて、暗くて眠かった。
朝は豆乳、紅茶、チョコなどの細かいお菓子をご飯代わりに消費した。
駐車場まで夫と一緒に傘をさして歩いた。
雨は降っていてもあまり寒くなく、鶯の声が聞こえた。
家に帰って、冷蔵庫のトレイを水で洗い、棚を拭いた。
まだこぼれた汁の臭いが残っていた。
お掃除用の重曹を瓶に入れ、すてる予定だったガーゼを輪ゴムでとめて消臭剤にした。
子供服のもう着れないものを袋に詰めたら、またごみ袋いっぱいになった。これからは気をつけて捨てよう。
使ってなかったプラスチックのお米のストッカーも捨てることにした。
生協の注文書を書き、食品も少し注文してみた。
義母をスーパーに連れて行った。
私は二人分の弁当だけを買った。人参は迷ってやめた。本当に家に帰ってきてからにしよう。それ以外に買うものを思い付かなかった。
義母が知りあいと会って楽しそうに話しているのが聞こえた。
先に車に戻って待っていた。
義母は車の中で、金沢に行くバスが増えたから、明日義父に会いに行こうと思ったが、腰が痛くて行けなさそうだと言った。
長時間座ったままは腰に良くないですね、と応じた。
家で買ってきたとりご飯弁当を食べた。
398円だけど、とりの炊き込みごはんに5品のおかずがついていてお得だった。夫は498円のハンバーグ弁当を食べた。
温かいお茶を入れて飲むと、ほっとできた。
午後はまた衣服やバッグなどを片付けた。
夫がA町のホームセンターに行くというので、一緒に行った。
A町のホームセンターはW市とは違って、少し壊れているものの、恐怖心を感じるほどではなかった。
私はレンジ台を探した。ぴったりくるのがなかったが、むしろテーブルをレンジ台にしても使いやすそうだった。
ただ耐荷重が足りないのであきらめた。
夫も棚を探していたようだったが、気に入るのがなかったようだ。
せっかく来たので、両親が避難所で飲むためのお茶を買った。最近、お茶の支援物資が少なかった。
帰り道の途中のスーパーの駐車場に息子の携帯電話会社の車が来ているを見つけた。ショップが被災して、キャンピングカーで営業していた。
息子のプラン変更の手続きがしたかったので、できるか聞いてみた。
できるが、もう今日は終わりということだった。本人もいないし、今度にするしかない。
来月の日程は未定なので、電話して聞いてほしいと言われて、電話番号の書かれたポケットティッシュをくれた。
帰ってから、昨日みた音楽健康指導士についてネットで探した。口コミが少なかった。
でも地域交流の機会が増えるとか、認知症の予防という言葉が私にぴったりに思えた。
支払い方法を確認し、ネット通販の電子決済が使えたので、ギフトカードを買いに行った。家に帰ってギフトカードを登録し、さっそく通信教育の講座を申し込んだ。
小さな一歩だけれど、地震の経験を糧に、より良い方向に進めたという満足感があった。上手くできるかどうはわからないけれど、それは勉強してみないとわからない。目の前のできることを一つずつ積み上げていくしかない。それは地震で感じたあきらめの気持ちとも通じるところがある。
そうする以外に前に進む道がわからない時もあるのだ。
6時になったので避難所に戻った。
車の修理工場から電話があり、代車の手配ができて月曜から修理できるということだった。
夜はコンビニ弁当だった。美味しく食べた。
母が二次避難してから借りたままになっていた膝掛けや長座布団を
ランチルームに返しに持っていった。
親戚の人と母は電話をしていて、祖母の救急搬送された時のことを話していた。待っていたが電話が終わらず8時半になったので、荷物を置いて歯磨きをしに行った。
トイレに行く途中、支援物資置き場に、仮設住宅に入った人は2週間支援物資を持っていくことができるという張り紙がしてあるのに気が付いた。
区切りを付けなくてはいけないということだろう。
移動美容院と落語のチラシも貼ってあった。木曜なので、仕事で行けない。
今の状況で落語が楽しめるだろうか。聞いてみなければわからない。
もう一度母のところに行くと電話は終わっていた。Iさんの家の写真を見せていなかったので見せた。実家と同じくらいの壊れ具合、つまりは全壊だ。
ひどい潰れとるな、と母は言った。
今日はMさんはいたが、ティアラちゃんがいなかった。
どうしたのか聞いたところ、月曜に金沢の施設に行くので、N市のペットホテルに預けてきたそうだ。
さみしいですね、というと、あっちはどうかわからないけど、たまにはのんびりしないとーと笑った。
なかなか寝付けなかったが、寝てしまうと途中起きることなく、朝まで眠れた。