小説 (仮)被災者になるということ~能登半島地震より 第75話

3月15日 金曜日

朝はドーナツと紅茶にした。

家に帰って仕事をし始めたところで、父から電話があった。
祖母が救急搬送されて、心臓マッサージを受けていると母から連絡があったと言う。
まさか、そんな。
弟が仕事から帰ってきたら、一緒に祖母のところに向かうが、私はどうするか聞かれた。仕事が込んでいるし、生きていれば後でも会えるだろうが、K市まで普段でも3時間はかかる。
間に合わないなら行っても仕方がないように思った。そのため、行かないことにした。生きていてほしいと強く願った。
仕事を続けていると10分ほどして、また電話があった。
だめだった、と父は言った。
涙があふれた。
死に目に会えないどころか、1月に会ったのが最後になってしまった。
向こうで火葬もすませるということだったので、K市に行くことにした。
上司に、二次避難先で祖母が亡くなり、向こうでお骨にするというので
慶弔休暇を取らせてください、と電話で伝えた。声が震えた。
上司は道が悪いから、気をつけて行ってね、と優しい言葉をかけてくれた。
夫に連絡して、祖母が亡くなって、弟たちとK市に行くことになったと伝えた。夜は帰ってくるつもりだった。義母には伝えなくていいといったのだが、夫が連絡したらしく、すぐに義母から私の携帯に電話があった。
少し落ちついてから連絡したかったのだが。
現金を持っていきなさい、と言われた。
ちょうど、生活費として8万あったので、8万ありますと伝えたのだが
それじゃ足りないから、もっとおろしていきなさいと言われた。
「お母さんがずっと一緒にいて、お母さんが一番ショックを受けているだろうし、当事者はこんなときに慌てるものだから、あなたがしっかりしてあげなさい。」
私は当事者じゃないって言うの?
私の血のつながったばあちゃんなんだよ?
今は土日でもお金をおろせますからというような話をぼそぼそとして電話を切った。
義母は正論を言っているのかもしれないが、無神経さに腹が立って、泣いた。
弟はいつ来るのかと思ったら、すぐに電話があって、もう家の前に来ていると言った。銀行に寄ってもらい、当てつけのように50万円おろした。

車内ではたわいのない話をした。
とはいっても、すべて地震関係で、弟の会社の人の話とか、近所の人の二次避難とかだ。
父と弟と私で遠出をするのは、人生で初めてかもしれなかった。
私は地震後初めてW市を離れた。W市を離れても、似たような景色が続いていた。道路は割れ、家はつぶれ、屋根にはブルーシートがある。
のと里山海道は、上りはまだ通行できない区間があるので、弟は徳田大津インターチェンジからのと里山海道に入った。
この先は補修されたところや、2車線のうちの外側1車線が崩れ落ちて走行不能になっているところもあったが、それほど道は悪くなかった。
3時間ほどかかって、金沢についた。
ご飯を食べようとしたが、ちょうどご飯時で混み合っていてすぐに入れなかったため、もう少し進んで、松任の大型ショッピングセンターのフードコートで食べることにした。
食欲がないので、うどんを食べた。
このショッピングセンターには以前に来たことがあった。
隣に大きなおもちゃ屋さんがあって、息子のクリスマスプレゼントを買いに来たのだ。
その時にも、このフードコートで食べた。
たまたま同じになったのだが、楽しかった思い出さえも、あの頃は良かったというような気持になり、悲しかった。
母から、祖母が死後の検査でコロナにかかっていたことが分かり、
コロナの検査キットを買ってきてほしいと電話があった。
病院では母に症状がないため、検査ができないそうだ。ちょうど同じ建物内に薬局があったので、そこで買った。
2時頃に出発した。
手取川大橋を渡ったところで遊園地の観覧車が見えた。
この遊園地も楽しかった思い出の場所だ。自分が小さい頃も、息子が小さい頃もこの遊園地にやってきた。
こんな理由でこの遊園地を見たくはなかった。

K市の病院についたのは3時30分ころだった。
入口がいくつもあって、どこに行けばいいのかわからず、電話をしてやっと
母のところへ着いた。
母は私たちを見て、ほっとした表情を浮かべた。
祖母は化粧をしてもらって、穏やかな表情で眠っているように見えた。祖母が化粧をした顔を見るのは、覚えていないくらいだった。
私たちは手を合わせた。
弟と父は数珠を持ってきていた。私は持ってきていない。
祖母が動くのではないかと思ってずっと見ていた。できることなら動いてほしかった。
病院から紹介してもらったセレモニーホールとの約束時間が4時半だというので、待合室に移動して待っていた。
弟は少し寝るといって、車に戻った。
母にコロナの検査キットを渡し、待っている間に検査をした。
病院で祖母の死因を調べるために、検査をしてもらい、死亡診断書をもらったことをきいた。
それから、母は朝から警察にいろいろと聞かれたという話をした。
警察から渡された紙も持っていた。そこには病院以外で人が亡くなった時に、話を聞かなくてはいけないということの説明が書かれていた。
母は、警察官から一度言ったことと違っていると言って、何度も同じことを聞かれ、犯罪者になったようで、もう消えてなくなりたいと思った、と言った。
母は被害妄想が強いほうなので、祖母の亡くなったショックもあり、
強く責められたように感じたのだろう。
実際はどうかわからない。犯罪者でないかどうかを確かめるためにわざと強い口調で話すのかもしれない。
母のショックを和らげるように慰めた。
4時半にセレモニーホールの人が病院に来た。
30代くらいのお兄さんで名札にNさんとあった。
看護師さんとNさんの二人で祖母を搬送車に移した。白いワゴン車を改造したものだった。白い布にくるまれ、顔にも白いハンカチがかけられた。
そうして祖母はワゴン車に乗せられた。
セレモニーホールの人が、土地勘がないでしょうから、ついてきてくださいといい、白いワゴン車の後ろに、私たちの車がついていった。

セレモニーホールの裏手につくと、ドアからストレッチャーのようなものを出してきて、祖母をのせ、すぐ隣の部屋に運んで行った。
祖母を安置する部屋で、さっき運んだNさんが説明をしてくれた。
最初に宗派を聞かれた。浄土真宗だ。能登は浄土真宗が多い。
少し前にも二次避難者の葬儀をしたことがあるそうで、なるべく最低限となるような提案をしてくれた。
みなさん、何もない状態でこちらに来られます、喪服がない方もおられました、とさりげなく教えてくれた。
私も持ってきていなかった。
こちらの市役所に死亡届を出すのも、代理でできるといい、本当に助かった。火葬が明後日になるということだった。
お坊さんの手配と、明日の夜、セレモニーホールの畳の部屋に泊まれるように、レンタルの布団なども手配してくれた。
ひとまず安心できた。
最後に、納棺のときに、一緒に入れるものを用意しておいてください、と言われた。果物など燃えにくい物は入れられないということだった。
「入れたいものを忘れないようにしてくださいね。」

今日の夜、どうするかということになった。
明日の午後納棺になるのだが、今から帰って、また来るのは大変だろうということになった。しかし、弟は猫の世話があるので、帰るといった。
私は泊まるつもりはなかったし、喪服も数珠も持ってきていなかった。だけど、今から帰ると12時を過ぎるだろうし、明日は6時頃に出発になる。父と泊まることにした。
母の二次避難先のホテルは二人部屋しかなかった。祖母がコロナだったのでその部屋を使わないほうが賢明だった。
どうせ父とは避難所の隔離部屋でも一緒だったのだ。
ベッドが2つあるだけましだった。
みんなで夜ご飯を食べてから、ホテルに移動することにした。

帰る時にNさんとは別の年配の職員さんが話しかけてきた。
地震のことだった。こちらでも地盤が軟弱なところがあって、家が傾いたりして大変なのだそうだ。
やはり、二次避難中に亡くなる方も何人もいるということだった。
話好きなだけで、悪い感じはしなかった。
このようなことがあれば、話したくなるのは当然だろう。

夜はファミレスにした。
家族水入らずの食事はいつぶりだろう。私が実家で過ごすときには、夫も息子も一緒だった。
このファミレスは奥能登にもあるのだが、奥能登の店はすべて閉店中だと弟がいった。3か月近くたった今でも、ファミレスさえ、遠くまで来ないと食べられないような状況なのだ。
やはり食欲がないため、和風パスタだけにした。

母は弟の帰り際、ごみ袋6個分の服を車に乗せた。ちょっと多すぎると思ったが、弟は少し嫌な顔をしただけで、何も言わずに持って行った。
ロビーには7段の雛人形が飾られていた。
大浴場に行かないかと母に誘われたが、私は断った。
替えの下着を持ってきていないので、人がいるところに行きたくなかった。
部屋はあまり設備がいいとは言えなかった。
蛇口をまわすとキーという高い音がし、カランとシャワーの間に水を止める位置がなかった。そのため、蛇口をその都度まわさなくてはいけなかった。
面倒だったので、バスタブに水をはって使った。
大浴場はきれいなようなので、みんな部屋のシャワーは使わないのかもしれない。
私のあがった後に、父が入った。

夫にメールをし、息子には電話をした。急だったが、息子は特にいつもと変わりなかった。
父がテレビをつけたが、つまらない番組だったし、音も大きかったので
10時に消してもらった。

全然眠れなかった。
そもそも場所が変わると眠れないのもあるし、興奮しているのもあるだろう。
昔、ホテルに泊まったときに、祖母が鍵を壊したことを思い出した。
あれは、私の結婚式の前日のことだった。
金沢で結婚式をするために、家族みんなで前日にホテルにとまったのだった。その時代は鍵はカードキーではなく(カードキーのところもあったかもしれないがそのホテルは違った)祖母が鍵を開けようとして、
スプーン曲げのように曲げてしまったのだった。
どうやって曲がったのか不思議だった。
フロントにいって、すみませんと言って謝った。それほど嫌な顔をせず、予備の鍵をくれた。
あの頃は祖母もまだ元気で、シングルの部屋でも問題なかった。
結婚式をしたのも、こんな地震になった後では、本当に無駄だったと思えた。そのお金があったほうが、今、役に立っただろうに。
もともと結婚式をしたいという願望はなかった。私は写真だけで良かった。
義父母に言われてそれならとそれほど大きくない程度にやったのだった。
今になって、強く後悔することになった。

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