小説 (仮)被災者になるということ~能登半島地震より 第43話

2月12日 月曜日 振替休日

朝起きたとき、少し眠れた感じがあった。
下だけでもパジャマに着替えたのが良かったのだろう。

朝はコンビニの総菜パンと牛乳だった。
牛乳は常温保存可能なのでとっておき、紅茶を飲む。

飼い主に抱っこされたダックスフンドが鼻をならしていたので、見に行った。
ティアラという名前の女の子だった。
いつもの分のご飯をあげてるんだけど、まだ食べたいと言って鳴いてるの、と飼い主の人が教えてくれた。
なんかわかりますね、私も食べちゃいますし、といって、ティアラの頭を撫でる。少し慣れてきたのか、手を舐めてくれた。
私も夜ご飯の後に、スナック菓子を食べてしまうことがある。ご飯と一品なので、満足感が足りない。

放送があった。
今日の午後、少年野球でキャッチボールをしたいので、グラウンドの奥半分に車を停めないでください、お願いします、というものだった。
どこの小学校も避難所になっていてグラウンドが使えないので、スポーツをする場所がないのだ。
一ヵ月も野球のできなかった子供たちのために、このグラウンドが使えるなら、とてもいいことだ。

息子は市役所前で炊き出しのボランティアをするといって、出て行った。

地震になってから毎日履いていた長靴が破れてしまった。雪の上やぬかるんだグラウンドを歩くには、長靴しか履けない。
後でファストファッションの店に行くことにし、
それまで家で片付けと洗濯をした。

10時頃に買い物に出かけ、くるぶし丈かふくらはぎ丈か悩んだすえに
ふくらはぎ丈の長靴にした。
くるぶし丈のほうが歩きやすいが、大雪の時に雪が入ってくるかもしれない。それくらい積もる時が年に数回ある。
くつ下のセールをしていて、1足100円だったので、これもかごにいれる。被災地価格だろうか。
mofusandのトートバッグを見つけた。ねこがサメの着ぐるみを着ている絵が可愛すぎる。ポケットがたくさんあるところにも惹かれる。
これは買えなかったら後悔すると思い、かごにいれた。

店を出た後で、夫が急に墓を見に行きたいと言い出したので、墓地へと向かった。
墓地は高台にあり、道路は通れたが、ひどい亀裂が入っているところが何か所もあった。
周りの家は建っているものもあったが、応急危険度判定結果は、ほぼ赤い紙の「危険」だった。

墓石は8、9割倒れていた。まっすぐ立っているものが目立つほどだった。
応急処置で青いビニールシートを縛り付けてあるものがかなりあった。納骨棺に雨が入らないようにしているようだ。
中には、お骨まで見えるほど壊れているのに、そのままになっているものもあった。
家の墓石は一番上と真ん中が落ちて、2メートルほど先に転がっていた。どうやったらこんなところまで転がるのだろう。
これらは夫と二人で持とうとしても、少しも動かなかった。
納骨棺を覆っている石は、かろうじて少しずれている程度で済んでいた。
二人で力いっぱい押して、雨水が入らないようにした。

そのあと、宅急便の仮営業所の場所を確認するために、少し遠回りをした。
宅急便の仮営業所は、朝市の近くにある。
通り道、車の窓から朝市の焼け野原が見えた。焼け野原という表現以外ないような光景がひろがっていた。
骨組みだけの建物も見えて、戦争の後のようにも見える。
思ったよりも、茶色が多いのは砂埃だろうか。以前の面影はかすかに残っていた。

避難所に戻ると、グラウンドの奥の方では、大人たちがトンボで砂をならしていた。

昼の炊き出しはラーメンで、有名店なのか取材が来ていた。
石川県の店ではないようだ。ラーメンを作っている人は制服らしいおそろいのポロシャツを着ていた。
それに加えて2斤1000円ほどする高級食パンも配っていた。
紙袋でわかる、有名な店だ。私は以前にもらって食べたことがあった。
行列につかないと買えないようなパンだ。

夫はラーメンとパンをもらってきたが、私はどちらももらいに行く気になれなかった。
アルファー化米ご飯、魚肉ソーセージ、朝の牛乳にした。

どうしてそんな高級食パンを配るのだろう。配っていたのは、ぱっと見だが、パンの店の人ではなかった。
私はそんな高級なパンを今、欲しいと思わない。
弁当2個分くらいに相当するし、同じ金額ならその方が栄養がある。
普通の食パンなら4つくらい買えるかもしれない。その分、たくさんの人に配ることができる。
くれるものに文句を言ってはいけない。
しかし、私が求めているのは日常なのだ。
気分が落ち込み、薄暗いところにいるように感じた。
体育館の人たちができたての温かいラーメンと食パンを喜んでいた。
私がひねくれているだけだ。

ご飯の後で、車に乗るためにグラウンドに行くと、もう小学生たちが来ていた。練習中の声やボールがグローブに当たる音が聞こえた。
地震前には夕方になると、いつも聞こえていた声だ。
日常の声だ。
こんなことすらも泣きたい気持ちになった。
少年野球の声で泣きたくなるなんて、今まで想像もしなかった。

夫と二人で義父母の家を片付け始めた。しばらくしてから父が来た。
夫と父とでガラスのミニ温室をずらし、温室用ヒーターのコンセントを抜くことができた。これでやっと、電気の再開が申し込める。
観音竹の土、水耕栽培の土、鉢底石、ブルーベリーの肥料、バラの肥料など
各種の植物向けの土や肥料がまだまだ出てきた。
結束バンドやワイヤー、名前ラベル、鉢底ネット、プリンやゼリーのカップなど園芸用品も嫌になるほど(すでに嫌になっているが)出てくる。
可愛いカップは、鉢になれると思うと捨てられないのだろう。私も園芸が好きなので、その気持ちはわからなくはない。これを反面教師にして、気を付けなければいけない。
味付け海苔のプラ容器には化成肥料などが入っていて、仕分けが面倒だ。あちこちにあったものを集めると8個もあった。
仕分けしないと回収されない。化成肥料を庭に捨てて、容器は軽く洗ってプラごみにする。

少し日が長くなってきて、5時頃まで作業できた。
家に帰って着替えた後、避難所に戻る。
夜はご飯と具沢山味噌汁。レンコン、春菊、エノキ、豚肉入り。
食べると体が温まった。
息子はボランティアから帰ってきていて、自分でご飯を取りにいった。

母から電話があり、義母に電話がしたいと言った。
義母が帯状疱疹になって大変そうだから、と言う。一度、義母に確かめてから、連絡すると伝えた。
もちろん義母が嫌だとは言わないだろうが、いきなり知らない番号からかかってきたら困るだろう。

義母に確認した後、すぐに母に電話をし、電話番号を教えた。
母は、義母の帯状疱疹はどこの病院で診てもらったのかと聞いた。
金沢駅のクリニックで、6時までやっているらしいと言った。
母の避難先のホテルは病院からも遠い。やはり駅近くは便利だ。
体育館のテレビで、仮装大賞をやっているのが聞こえてきた。
母はテレビを見ても面白いと思えなくなったと言う。私も同意した。
地震前に毎週楽しみにしていた番組を見たいとも思えなくなった。
今の状況とかけ離れていて、向こうが笑っていても、笑えないのだった。
ただ、地震のニュースばかり見ているのも精神的につらかった。

今日も下だけパジャマに着替えた。
それだけでも少しほっとした。
今まで着替えなかったのは、夜でもすぐに避難できるようにという考えもあった。体育館から避難することはないと思いたい。
mofusandのトートバッグの絵を眺めた。気持ちが少し和んだ。

3時半にストーブの延長ボタンを押した。
仕事のことを考えていたら、眠れなくなった。
そのまま朝になった。

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