現代における多義と一義
先日、ある大学の博士課程で研究をされてる方と話す機会があった。とても重要な学びだったので、自分なりに話をメモ程度にまとめておきたい。
多義的であることの正義を訴えてきた現代思想は、今日においてその立場をいかに保てるのか。
かつて多義的な可能性が捨象され、一元的であった時代には、多義性は可能であり得たし、そうあって良かったのだろう。しかし、この現代という時代において多義性を語ることは最早、リベラル的なポジショントークにならざるをえなくなっているのではないか。あらゆる少数者·被害者の存在が明るみに出るようになってから、そうした存在への合理的配慮が求められる一方で、それが過剰になった時に起こる不利益にはどう対処すれば良いのだろうか。
また、多義的であろうとするだけでなく、多義的であることを強制する暴力をも考えていく必要があるのかもしれない。例えば、自閉症や学習障害などの発達障害との関係の中で、多義的な関わり方は当事者にとって辛いものがある。あらゆる外界からの刺激に敏感に反応してしまうか、若しくは刺激をシャットアウトせざるをえない状態において、果たして多義的な在り方を肯定することはできるのだろうか。また、現代の貧困層や一般庶民は日常という重さの中にあって、そうした多義的な知にアクセスできず一義的で有らざるをえないのかもしれない。
あらゆる現象や事物を捉え、その多義的な側面を重視することができるのは、現代において、それが可能であった環境や身体を持った人にしか最早生じないのではないか。
しかしながら、一義的であるということは一元的であることと同義ではない。「一義的」という言葉には、最も重要な根本という意味を含むけれど、「一元的」という言葉には根源を一つにしているという意味しか持たないという。
あらゆる複雑な要素の存在を無かったことにはできないけれども、その重要だと思う部分を取り出すという営み。研ぎ澄まされた価値観に基づく自身の魂の在り方と振る舞いを実践する人間に、果たして「多義的であれ」と言い得るのだろうか。