寄席通い ☆101
私が通っていた寄席は、池袋演芸場だったが、今の建物ではなく三階建てで、エレベーターもなく、客は薄暗い階段を三階まで登らなくてはならなかった。高齢者の客はまずこれで挫折してしまうのであった。
本当に客の入らない寄席で、「池袋秘密倶楽部」とも呼ばれたくらいだった。1990年にこの旧池袋演芸場は建物ごと無くなり、93年に新ビルを建てて今の演芸場になったのだから、80~90年の頃の話だ。
池袋はよく行く馴染みの街だったが、寄席があると知ったのは随分後の話で、更に入場するのにも時間がかかった。裏路地にあって、なんだか怪しげで、楽しい事がありそうな様子に見えなかったのだ。
当時は、落語そのものの人気に陰りがあった時期で、上野鈴本、新宿末広亭、浅草演芸場ホールは、平日だとかなりの空席があった。
私が初めて行った寄席は、上野鈴本だが、その頃はネットもなく、場所が分からず、東京の地理も分からない頃だったのでガイドブックを買って探したのだが、田舎者の悲しさ、地図を見てもやっぱりよく分からないのであった。
すると、素人の私が見ても、たぶん芸人らしき和服を着た艶っぽいお姉さんが通りかかったので、「上野鈴本はどこですか?」と訊いてみた(開演時間が迫っていたので、私も少し慌てていた)。
「あら、寄席へ行くの?兄さん偉いわねぇ、こっちよ」
と、裏路地に誘われた。ついて行くと、なるほど寄席っぽい建物があって、色とりどりの幟も沢山立っている。お姉さんは「じゃぁね」と言って去って行った。
そのまま入ろうとしたが、私の足は止まった。ガイドブックの写真となんだか違うのである。看板にも「本牧亭」と書いてあるのだ。
私は元いた場所まで戻り、他の人を捕まえて、本当の鈴本演芸場にたどり着いたのであるが、
あの玄人っぽい、謎の女性の意図が未だに理解出来ない。
本牧亭は講談専門の寄席で(浄瑠璃、浪曲などもやっていた、今はもうない)、落語メインの鈴本とは似て非なる存在だ。知ってる人は間違えるはずがないのだが、
もし、あのまま本牧亭に入って行ったら、私はどうなってしまったのか?ちょっと不思議な話なのだ。
その頃、5代目の円楽は(先に亡くなったのは6代目三遊亭円楽。その師匠に当たる)東陽町に「若竹」という寄席を持っていた。
私はそこへも出掛けて行ったが、日曜日だと言うのに、客が15人くらいしかいなかった。
これは、酷い。
都内1、客が入らないと言われていた池袋演芸場でも、日曜日なら30人くらいは入るのである。
人気番組「笑点」で、円楽と楽太郎(当時)が若竹をすごく宣伝していたのに、悲惨な現状だった。
ただ、そこには若き日の伊集院光が三遊亭楽大(らくだい)として高座に上がっていた。
落語ではなく、トークであった。楽大は楽太郎の弟子だったが、大師匠の5代目円楽に小言を云われたエピソードをネタにして、ちゃんと笑いをとっていた。
若竹という寄席の話など、今どき誰も知るまい。若い人はもちろん、年配の人も知らないかも知れないが、
レアな話だから記録として残しておこう。
旧池袋演芸場と同じで畳敷きの寄席だった。キャパも同じくらいか?
正直、ぜんぜん詰まらなかった。まあまあなのは、トリの噺家と楽大(伊集院光)だけで、他にもいろいろ芸人が出たが力のない芸人ばかりだった。
そんな寄席によく行くね?とここまで読んでくださったあなたは怪訝に思うかも知れないが、私は5代目円楽の師匠である6代目円生のファンだったので、
円生死後の円楽党がどうなっているのか興味があったのだ。
何回か若竹に行ったが、本当に悲惨だった。最後に楽太郎(しつこいようだが6代目円楽)の独演会に行った。
客はせいぜい30人であった。高視聴率番組「笑点」の中でも楽太郎はそこそこな人気キャラだった筈だ。知名度なら落語家としてトップクラスの人の独演会に30人というのは、
若竹自体に、全く人気がなかったからであろう。
池袋演芸場で志ん朝や小三治が独演会やったら超満員になるのである。
私はもう、若竹に行かなくなり、赤字続きの若竹は、巨額の負債となって5代目円楽の重圧になり彼を苦しめたのである。
程なくして若竹は営業を停止してしまったのだが、
ちょうどバブルと時期が重なり、若竹を売り払った5代目円楽は、借金帳消し、大儲けするのである。
なんだそのオチ。
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