有馬かなと藤山寛美 ㉙
相変わらず『推しの子』を見ながら考えている(と言っても仕事もあるしどっぷり見ている訳ではないが)。
昭和の名優藤山寛美と一番近いのは有馬かなであろうか?アクアの分析によると「共感力が強くてオシに弱い、泣き落としやゴリ押しが有効」とあるが、寛美の性格でもある。
寛美は3歳で初舞台に立つが、有馬かなもそのくらいが芸能界デビューのようだ。芝居が上手いのは役者として当り前だが、歌や踊りも努力して上達した。
「演技は結局人格が出る」は有馬かなのセリフだが、これも寛美と似た考えを持っている。そして何よりカリスマ的スター性を秘めている点だろうか。
藤山寛美(かんび)を知っている人が、或いは興味を持ってくれる人が、今どれだけ居るのか私には分からない。
むかし、笑いは東と西で分断されていたと言われる。
明石家さんまやダウンタウンがテレビに登場し、活躍するまで関西弁が受け入れられなかったという説をよく聞くが、私の記憶とは違っている。
私は中学3年の時、田舎のホールで桂米朝の落語を生で聴いたが(『スマイル ⑧』)、米朝師匠は関西弁であったが、私も他の観客も大爆笑していた。関西弁なんて普段はほとんど聞いてないのに何故笑えたのかと言えば、
物心ついた頃から藤山寛美の芝居をテレビで見て笑っていたのである。
検索によると、
>1959年(昭和34)、寛美のアホ役の集大成ともいえる舞台『親バカ子バカ』のテレビ放送が始まり、放送開始から視聴率はうなぎのぼり。最高視聴率は、なんと58%を記録。この作品によって、『藤山寛美』の名は全国区となり、松竹新喜劇の聖地、大阪・道頓堀の中座は連日満員御礼となりました。
とある。
私は昭和40年生まれだが、小学校の頃は毎週土曜日の昼間、松竹新喜劇が放送されていて、毎週欠かさず見ていた。
私の笑いの原点は、落語と松竹新喜劇と、ドリフターズになるだろうか。
『親バカ子バカ』のテレビ放送で一躍スターとなった寛美は、湯水のように金を使い、遊んだ。
元々茶屋の女将であった母親が、「役者は遊ばなあかんのやで」という教育方針の人で、寛美はその教えを忠実に実行したのである。
遊ばなければならない理由は、役者としての自分を売る宣伝のため、役者としての色気を培う養分として、莫大な金を注ぎ込んだ。
キャバレーに飲みに行き、わざとホステスの着物を汚してしまい、「お詫び」と言って、その場の全員分の着物をプレゼントしたり、
カルーセル・マキがまだ素人で水商売していた時、「あんたの服、安い生地やな、これで新しい良い服買いなさい」とポンと50万円渡されたという。
楽屋に花が届けられれば、そのお返しに花代の3倍くらいの金を店で使い、従業員たちにチップを惜しげもなくあげてしまう。
こういう事をやっていて、収入以上の金を使い捲り、ちょろい性格でもあったから、騙されたりして借金が当時の金で1億8千万円。今なら10億以上の負債を抱え、自己破産してしまう。
松竹も寛美を見放しクビとなり、師匠の渋谷天外も弟子として破門にされてしまう。
しかし、寛美のいなくなった松竹新喜劇には客が入らなかった。ミヤコ蝶々と南都雄二呼んで主役にしたり、料金を下げたりしたが客足は戻らなかった。
つまり、他の役者とは、ぜんぜん役者が違うのであった。
ミヤコ蝶々も良い役者であったけれども、カリスマ性、オーラが寛美は別物だったのである。ミヤコ蝶々主演の松竹新喜劇もテレビで見たが、やっぱり面白くないのだ。
良い役者と、スターの違いをまざまざと見せつけられ、観念した松竹は、けっきょく彼の借金を全て肩代わりし、松竹新喜劇に藤山寛美を呼び戻すしかなかったのであった。