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足踏み ☆136

松本人志が子供の頃、超人バロム・1に憧れていたと言っていた。或いは、誰かが自分をさらって行き、手術して改造人間(要するに仮面ライダー)にしてくれないかと空想していたとも時々語っていた。

恥ずかしい、まるでバカ丸出しだが、この気持ちはほぼ同年代の子供だった自分には良く分かる。男の子はみんな似たり寄ったり、子供の頃はおバカなのではないかと思う。

私はアニメの『海のトリトン』に憧れていた。海辺の町の、海辺で育ったせいかも知れない。『トリトン』は手塚治虫が原作だが、アニメと原作はぜんぜん違う。

のちのち考えるに、かなり設定もいい加減でストーリーとしても不完全燃焼で傑作とは言えない、いや、駄作とすべきかも知れないが、兎に角、小学生の私はトリトンに憧れて、宝剣オリハルコンが家のどこかに隠されているかも知れないと、こっそり箪笥や押入れを家探ししたものである。

『海のトリトン』の第1話は「海が呼ぶ少年」で、それまで漁師に育てられた普通の子供が、実はポセイドン族に絶滅されたトリトン族の最後の生き残りであると衝撃の真実を(白いイルカ・ルカーによって)知らされるのである。

普通の漁村育ちの少年が、トリトン族の王子様になってしまうのだ。荒唐無稽だが、それが彼のアイデンティティなのだから仕方ないのである。


【海のトリトン】GO!GO! トリトン


んで、翻って私は誰なのかと言えば、言わずと知れた日本人なわけだが、では、日本人とは何者かと追求してしまう気持ちの根源は、子供の頃見たトリトンに憧れた気持ちが核になっている気がするのである。

私の先祖は、父方も母方も東北の出身らしい。(たぶん農家)もしかしたら蝦夷(えみし、縄文人)で、倭(やまと)に征伐された民だったかも知れない、倭はやがて日本となるが、飛鳥時代の歴史はまだまだ謎に包まれている。

還暦を前に日本史を勉強し直しているが、教科書に沿って学習すると、打製石器時代から鎌倉時代の初めまで3日で到達してしまった。



私が使っている教科書は300ページ足らずで日本史全体を貫いているから、そのくらいのスピードになっても不思議はないのだが、これではいくら何でもあまりに物足りない。

やはり歴史は細部に拘るから面白いのであって、

だから今は足踏みして、教科書は置いておいて『万葉集』を吟味しているが、『万葉集』の解釈にしても人によってぜんぜん違うのである。

『万葉集』は飛鳥時代から奈良時代の歌を集めたものだが、まだ仮名文字はなく全て漢字を使って書かれているが、そこが現代人には分からないのである。かつて本居宣長『古事記』を読み解いたように『万葉集』も読み解くべきなのに、

後に(平安時代)日本語風に変えて表記したものを元に解釈するので、まるで間違って知らされている場合が多い。YouTubeなどでも『万葉集』解説はたくさん出ているが、一般に流布されている間違った説で解説しているのが散見されたりする。

でも『万葉集』といえば、日本人なら誰でもその題名くらいは知っているものなのに、関心のある人は余りにも少なく。YouTubeの再生回数だってたかが知れているから関心が低い分誰も特に騒がないし、問題にもされないのであろう。

とても興味深い事柄なので、一般の説がどうして間違えているのか記事にしてみたいと思ったが、当用漢字だけではこの説明は不可能であるから記事にするにはかなりの工夫が必要な事に気が付いてやめた。

今日から、また鎌倉時代から勉強を進める予定である。

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