【小説】団地の子②
とある日、私はついに仕事中に倒れてしまい、上司に帰って休むよう厳命された。ここのところ、ほとんど眠れていなかったのだ。同じくノゾミも夜はきちんと眠れていなかった。けれど彼女は隣に私がいる安心感か、私よりは幾分眠れているようだった。それに体調がすぐれないときには無理に学校に行かせず休ませていた。おかげで彼女は今のところ何とか学校には通い続けている。
その日は本当なら仕事が夕方までの予定だったので、ノゾミは学童に行くことになっていた。それが急に午後までになったので、私は学童に今日は行かない旨を連絡し、ノゾミにはまっすぐ家に帰るようLineした。Lineは私が帰りの電車に揺られている間に既読になって、やがて「OK」のスタンプが送られてきた。
足を引きずるようにして部屋に辿りつき、扉を開けて「ただいま」と言っても返事がない。玄関にはノゾミの靴がない。一年生の下校時刻はだいぶ前に過ぎていた。だからノゾミはいるはずだった。学校からの距離を考えるとすでに一時間くらい遅れている。ノゾミはまだ一年生なので、道草を食ったり、友だちを話しながらゆっくり帰って来ることもある。けれど一時間も遅れることはない。
私はノゾミに電話した。電話からは、「電波の届かないところか、電源が入っていないため・・・・・・」のアナウンスが流れてきた。ノゾミは、まだスマホをこまめに充電する習慣がない。充電が切れ、そのアナウンスが流れること自体は珍しいことではない。
私は続けてノゾミの担任あてに電話した。たまに、欠席などでたまった課題を居残りでやらされることもあるからだ。担任は、「時間通りに帰りましたよ」と言った。そこで私は初めて強烈な不安に襲われた。私は続けざまに学童に電話した。間違えて、いつも通り行ってしまった可能性もあるからだ。けれど学童の職員も、「来ていませんよ」と言った。連絡先のわかる同じ小学校の母親にも、片っ端から電話をかけてみた。皆、「わからない」「見かけてない」とのことだった。
私は体調が悪いことなど忘れて玄関から飛び出した。まずは通学路を進んで学校まで行った。その時間には小学生の姿はまばらになっていた。たまにすれ違う子はノゾミよりもずっと大きくて、たぶん高学年のようだった。ノゾミのように小さな子はもういない。途中にある公園にもいなかった。
学校に着いたあと、私は団地にある大小すべての公園をまわってみた。けれどやはりノゾミはいなかった。もはやほかに心当たりのない私は団地の自分の棟に戻って来て、同じ戸口の全てのお宅を訪ねることにした。
101のシュウさんは、「いやいや来てないよ。見かけてもいないね」とのことだった。102のヤマガタさんは留守だった。301のウチムラさんは、インターホンを押したあとに室内から不規則な足音が聞こえてきて、十秒ほどで息を切らしながら「はい」と出た。けれど、やはり「うちには見えてませんよ」とのことだった。302のシマクラさんも「知りません」と言った。401のオカさんは留守で、402のイチカワさん宅では奥さんが出た。今日は見てないとのことだった。
私は自室に戻ってきた。もはや冷静さを全く失っていた。床に座り込み、ノゾミのスマホに電話した。もう、かれこれ二十回以上かけていた。何度かけても電源は切れていた。私はついに警察に電話することを決意した。番号を入力して発信ボタンを押しかけてたとき、部屋のインターホンの音がした。私はスマホを床に放りだして玄関に駆け、扉を跳ね飛ばすようにして開けた。
私は思わず後ずさりした。
そこには、見上げるほど大きいヤマガタさんが立っていた。そしてその横に、奥さんがノゾミの両肩に手を置き立っていた。
呆然と立ち尽くしていると、ノゾミは何ごともなかったように「ただいま」と言って靴を脱ぎ、私の脇をすり抜け部屋の中へと入っていった。
私が状況をのみこめずにいると、ヤマガタさんは直角に頭を下げ、毛の無い頭頂部を見せつけてきた。
「申し訳ありませんでした」
ヤマガタさんはことの経緯を教えてくれた。
今日の午後、買い物帰りの奥さんが、戸口前でうろうろしているノゾミと出くわしたという。ノゾミは鍵を忘れてうちに入ることができなくて、それで私を戸口前で待ちうけていたとのことだった。奥さんは、暑い外で待つのも大変だからとノゾミを102に招き入れ、そこで私の帰りを待たせてくれた。
私の連絡先を知らない奥さんは、ノゾミのスマホが充電が切れて使えないということを知り、何度か202に直接来てくれたのだが、ちょうどその頃私はノゾミを探しに出ていてすれ違ってしまったようだった。
そしてさらに悪いことに、ノゾミはちゃぶ台の上に置かれたポットをうっかりさわり、その拍子に熱湯が出てやけどをしてしまったのだ。ヤマガタ夫妻は大慌てでノゾミを皮膚科まで連れて行き、つき先ほど帰ってきたところだという。幸い右手のやけどは非常に軽く、あとが残るようなことはないらしい。
「勝手におじょうちゃんをお預かりしたうえに、怪我までさせてしまって、ほんとうになんとお詫びをしたらよいのか・・・・・・」
ヤマガタさんは、終始大きな体を縮こまらせて、何度も頭を下げていた。私とはまともに目を合わせられないようだった。奥さんは小さな体をさらに小さく縮こまらせて、うつむき少し震えていた。顔色も悪かった。
ノゾミはいつの間にか側にきて、私の腰のあたりに抱きついていた。右手に白い包帯を巻いていた。小さな背中に手を添えその温かさを感じると、私にはやっと現実感が戻ってきた。
「突然仕事を切り上げたのも、ちゃんとスマホを充電させていなかったのも、ちゃんと鍵を持っているかを確認しなかったのも、全ては私の責任です」
こちらこそ大変ご迷惑をおかけしましたと私は頭を下げた。ヤマガタさん夫妻も、深々と頭を下げ返してきた。ほとんど前屈みたいな体勢だった。
奥さんが、「本当にごめんなさい」とうめくようにして言った。
もともと体調を崩していたところに団地じゅうを駆け回ったので、私は倒れてニ、三日動けなくなった。そして何とか歩けるまで回復したあとも、私はノゾミがまたいなくなるんじゃないかと不安であまり長い時間出かけられないでいた。その間にも、夜中の衝突音とか「出ていけ」の紙の投函は容赦なく続いていた。私は心も体も限界になり、仕事を長期的に休むことにした。
ある平日の午前中、スマホで転居先を探していると、部屋のインターホンの音がした。室内機で「はい」と応答すると、「シュウだよ」と大きな声が聞こえてきた。私は、「ああ、シュウさんですか」と言った。シュウさんは「うん、シュウだよ」と言った。シュウさんは、インターホン越しに用件を言うつもりはないようだった。それで私は仕方なく扉を開けた。
扉を開けると、シュウさんは私を見て大きな目をさらに見開いた。
「痩せたね」
私は「ええここのところ体調が悪くて」と言った。
「だからか。最近見かけないからさ。心配してたんだよ」
「ありがとうございます」
「ずっと家いるの?」
「ええ、そうですね」
「じゃあ畑行こう」
私は一瞬言葉が出なかった。
「すいません、今お伝えしたとおり、」
「体調悪いんだろう?」とシュウさんは言葉をかぶせてきた。
「だからって、ずっと家は良くないよ。日の光を浴びなくちゃ」
シュウさんは満面の笑みでそう言った。彼女は、本気でそれが私のためだと確信しているようだった。
「下で待ってるからさ、準備して出ておいで」
その日もとても晴れていたので私は日射しの強さにフラフラとした。指になかなかちからがこもらず、雑草を引き抜くのに苦労した。シュウさんはニンジンを引き抜いていた。スーパーで見かけるような、立派なニンジンが出来ていた。
「この前は大変だったね」とシュウさんが言った。
私は「え」とシュウさんのほうを見た。
「ノゾミちゃんのこと。ヤマガタさんから聞いたよ」
ああ、と私は言った。「すいません、お騒がせしました」
少しの沈黙のあと、シュウさんは「ヤマガタさんさ、」と言った。「昔娘さん事故で亡くしてるんだよ。ちょうど今のノゾミちゃんと同じくらいの年頃だったかな。だからさ、ノゾミちゃんに自分の娘を重ねちゃうんだろうね。あなたらが来た時も、ものすごく嬉しそうだったから。この前ノゾミちゃんを自分の家にあげたのもさ、彼女が困っているのを見てほうっておけなかったのかもしれないね」
「そうだったんですか」
私には、そこまで親しくもないヤマガタさんが、なぜノゾミにそこまでしてくれたのかが今一つ理解できないでいた。少し、気味が悪いとすら感じていた。けれど今の話を聞いて、その理由が何となくだけれど腑に落ちた。
「あなたらが引っ越して来たところもね、直前に家族がいたんだよ。両親と、やっぱりノゾミちゃんと同じくらいの女の子のね」
「ええ、それはオカさんから聞きました」
「ミウラさんって言ったかな。そこのお宅はヤマガタさんともすごく仲が良くってね。ご両親共働きだったから、それこそヤマガタさんちでよく娘さんを預かってたね。ヤマガタさんは、本当の孫・・・・・・いや、亡くなった自分のところの娘さんみたいにかわいがってたよ。ヤマガタさんだけじゃなくってオカさんとかウチムラさんも、『うちの戸口に子供が戻ってきた』って、そりゃあみんな喜んでたね」
「でもそのご家族、たしかわりとすぐに引っ越しちゃったって聞いた気が・・・・・・」
「二年くらい住んでたかな」
「せっかくまわりともうまくいってたのに、そんなに長くはいなかったんですね」
シュウさんは「そうなんだよねえ」と言ったきり、黙りこんでしまった。何か、話しづらい事情があるようだった。私は、重ねては質問しなかった。けれど少しして、「実はね」とシュウさんは語り始めた。
「シマクラさんと揉めたんだよ」
クリーンデイの時に、赤いバンダナをして、ナタを振り回していたシマクラさんだ。
「揉めたというか、シマクラさんが一方的に、いろいろと嫌がらせをしたみたいなんだよね。私がミウラさんの奥さんから聞いたかぎりだと。ゴミ捨て場に捨てたはずのゴミをミウラさんちの玄関前に戻したり、夜中にドアをドンドン叩いたり、『出ていけ』っていう手紙をポストに何度も放り込んだりさ」
こんなにも暑いのに、私は全身の毛が逆立つような感覚がした。それらはまさに今、私たちがされていることだった。
「最後はね、棟の前の通りを、シマクラさんがナタを持ってミウラさんの娘さんを追いかけたって話だよ。まあ娘さんは何とか自分の家に逃げ込んで、幸い怪我はなかったみたいだけどね」
私は慄然とした。体の震えがとまらなかった。
「シマクラさんは、どうしてミウラさんにそんなことをしたんですか?」
シュウさんは首を横に振った。
「わからない。ミウラさん夫婦はとっても穏やかで、誰かと揉めたりする感じじゃなかったね。シマクラさんも、なんでそんなことをしたのかは言わないし。たぶん、私以外の周りも誰も原因は知らないね」
「ミウラさん、もし理由もわからないでやられてたなら、すごく怖かったと思います」
シュウさんは「うーん」と言った。
「嫉妬かな」
私は「嫉妬?」と聞き返した。
「シマクラさんは、四十過ぎても独身だから。自分より若い人たちが、ちゃんと家庭を持って、幸せそうにしているところを見るのが辛かったのかも」
「そんな理由で」と私は首を振った。シュウさんは慌てて「いやいや」と言った。
「あくまで私の想像ね。だってほかに理由が見あたらないからさ」
「それでミウラさんは引っ越して、そのあとシマクラさんはどうなったんですか?」
「どうなった?」
「子供をナタを持って追いかけて、警察につかまったりはしなかったんですか?」
ああ、そういうことねとシュウさんは言った。
「来たよ、警察。ナタ事件の時。もちろんミウラさんが通報したんだろうね。本人たちにはもちろん、聞き込み?とかなんとかで、うちの戸口全員が話を聞かれたよ。でもシマクラさんが連れて行かれた様子はなかったね」
「どうしてですか?」
私には意味がわからなかった。
「わからないけど、たぶん証拠がなかったとか、そんな感じじゃないのかね」
「証拠って・・・・・・。でも証言なら出てくるはずじゃないですか?棟の目の前で、ナタを持って子供を追いかけたって・・・・・・。子供も悲鳴ぐらいあげるだろうし、誰かしら、見たり聞いたりしているはずじゃないですか?」
「それがねえ、うちの戸口には、運悪くその現場をちゃんと見た人いなかったのよ。悲鳴を聞いたりした人も。もちろん、ミウラさんの奥さんに、前から相談されてたことは話したよ。嫌がらせのね。でもそれも私が直接見たわけじゃなく、あくまでミウラさんから聞いただけだから、ちゃんとした証言とは判断してもらえなかったみたい。都会みたいに路上に監視カメラが設置されていて、映像でもあったら話は違ったのかもしれないね」
シュウさんはいつの間にかニンジンを抜きおわり、二つのポリ袋に分け入れていた。
「せっかく久しぶりに若い家族が来てくれたのにさ、もっと真剣に相談のってあげればよかったねって、みんな自分を責めてたよ。特にヤマガタさんの奥さんなんかはミウラさんの娘を本当の娘みたいにかわいがってたから、その落ち込みようって言ったら目も当てられないくらいでね。みるみる痩せて、みんなとっても心配してたんだけど、ほら、かわりにあなたらが来てくれたじゃない?だからすっかり元気を取り戻してみんな安心してたとこだったのよ」
シュウさんは、はいこれあんたらのとニンジンの入ったポリ袋を差し出した。私は「ありがとうございます」と受け取った。
「でも、皆さん怖くないんですか?」
シュウさんは「え?」と言った。
「こういう言い方はあれですけど・・・・・・。聞く限り、シマクラさんってかなり危険な方じゃないですか。そういう方と、同じ戸口なのは怖くないですか?」
「確かにね」とシュウさんは言った。「傍から見れば、そうだよね」
「でも私らにしてみれば、彼がほんの子供の頃から知ってるからさ、今じゃすっかりおじさんだけど、どこかまだ子供みたいに思っているところもあるんだよ」
シュウさんの話では、昔はオカさんとかイチカワさん、ウチムラさんとかシマクラさんさんのところもみんな子供が住んでおり、戸口はとても賑やかだったらしい。なかでもシマクラさんのお宅はお店をやっており、ご両親は日中家を空けがちだったので、シマクラさんは毎日戸口のどこかのお宅にかわるがわる預けられていたという。今の姿からはとても想像できないが、その頃のシマクラさんはとても愛嬌たっぷりで、戸口ではアイドルみたいな存在だったらしい。
やがてどのお宅の子供も自立して、一人また一人と戸口からはいなくなり、いつの間にか子供世代はシマクラさんだけになったという。彼の父親は彼が二十三、四のころ病気で死んでいるのだが、彼は大人になってもいつまでも定職には就かなかったので、その暮らしは当然ながら苦しそうだった。だから彼は大人になって以降も、時おり戸口のどこかしらのお宅から、食事や日用品の援助を受けており、それは今もなお続いているとのことだった。
「でもね、オカさんとかウチムラさんのお宅のね、粗大ゴミを捨ててあげたり、買い物袋を運んであげたりもしてるのよ。そういういいところもあるのよね。クリーンデイで一生懸命がんばったり、うちの戸口まわりのルール違反を注意するのも恩返しというか・・・・・・。ひとえに自分があの戸口にいる価値を示したいからだと思うのよ。だからね、そりゃシマクラさんは、普通に考えたら怖い人だよ。危ない人だよ。でも私たちがそう思って突き放したら、あの人を孤立させたりしちゃったら、あの人はもう生きてはいけないよ。あの人は、あの戸口だけでしか生きられない生き物なのさ」
シュウさんは、自分に言い聞かせるようにそう言った。
あの戸口でしか生きられない生き物。
私たちも同じようなものだった。いろんなアパートを追い出され、やっと団地に辿りついたのだ。
夜はゆっくり眠ることができ、お風呂ではゆっくり疲れを癒すことができ、食卓ではその日にあったことを話しながらゆっくりごはんを食べられる。そういう当たり前の幸せが、やっと掴めるはずだった。未来に、希望を持てるはずだったのだ。
けれどそれは許されないことだった。
「私、引っ越そうと思ってます」
私がそう言うと、シュウさんは「え」と目を見開いた。
「どうして」
「私たち、毎日のように嫌がらせをうけているんです。夜中に扉を叩かれたり、『出ていけ』っていう手紙を郵便受けに入れられています。たぶん、それらはシマクラさんの仕業だと思います。証拠はありませんけど、今シュウさんの話を聞いて、間違いないなと思いました。シュウさんは、なぜシマクラさんがミウラさん一家に嫌がらせをしたのかは、シマクラさんは独身だから、自分よりも若いミウラさんがちゃんと家庭を築いているのを妬んだからじゃないかと言いました。私は違うと思います。だとしたら、生きるだけで必死な母子家庭の私たちなど妬む対象にはなりません。羨むところがないんです。シマクラさんの標的は、ミウラさんの子供だったと思います。だからナタを持って追いかけたんだと思います」
「そんなこと・・・・・・」と言ったきり、シュウさんは言葉が続かなかった。普段は豪快な彼女だが、さすがに動揺しているようだった。
私なりに考えた理由はこうだった。
シマクラさんは、子供の頃からずっと戸口のみんなにかわいがられてきた。他の子どもたちはいなくなり、一人でいつまでも残るシマクラさんは、そのまま戸口の「子供枠」を四十になるまで占有し続けたのだ。けれど久しぶりに新しい子供が現れみんなはその子に夢中になった。彼は、今まで独り占めしてきた「子供」の地位が、その子によって奪われると考えたに違いない。
「理由はうまく話せません」
けれど私はその考えを、きちんと伝えようとは思わなかった。今ここで話しても、ほとんど意味はないからだ。
「けれどシュウさんの話を聞いて、私はほとんど確信に近いものを抱いてます。子供が標的である以上、このままだと近いうちにノゾミも襲われます。ノゾミは、私の全てです。引っ越しするお金なんてありません。あてもありません。それでも私たちは出ていきます。それ以外、選択肢はないんです」
シュウさんは、じっと私を見つめて黙り込んでいた。しばらくして一度口を開いたが、そこからは何も言葉は出なかった。シュウさんは目を閉じ、ただ首を横に振っていた。
翌日の朝、ベランダで洗濯ものを干していると、戸口の出入口からヤマガタさんの夫が出てくるのが見えた。彼は戸口から伸びる通路を進み、前の歩道に出たところでちょうど帰ってきたシュウさんと鉢合わせになった。
「おはよう」というシュウさんの大きな声が聞こえてきた。二人は立ち止まり、そのままそこで立ち話をはじめた。二人は、かなり声を抑えて話しこんでいた。だから、なんの話をしているかはここからだと全くわからなかった。しばらくすると、今度は戸口の出入口からオカさんが出てくるのが見えた。オカさんは迷わず二人の方へと歩いて行って、その立ち話にごく自然に加わった。物干しハンガーに靴下やハンドタオルを干しながら、私は時おりその立ち話に目をやった。気がついたら、立ち話にはもう一人が加わっていた。イチカワさんの妻だった。四人はとても小さい輪をつくり、声を潜めて話し合っていた。正直、少し気味の悪い光景だった。
話し合いはなかなか終わる気配がない。洗濯ものを干し終え部屋の中へ戻りかけた時、私はもう一度だけ立ち話の方を見た。
私は全身が凍てつくような感覚がした。
全員が、無表情で、じっとこちらを眺めていた。
私は部屋の中に戻ってベランダの戸を閉めた。胸に手をあて、必死に呼吸を整えようとした。
その日の夜中、私は相変わらず眠れずにいた。あの衝突音がいつ鳴るかと常に怯えているせいだった。私がまどろむことができるのは、夜が明けてから朝までの、ほんの数時間だけだった。
布団の中で、ノゾミは私に寄り添い寝息を立てていた。けれど数分おきにはその体勢を変え、とても眠りが浅そうだった。彼女もやはり、あの衝突音には怯えているようだった。
仕方なくスマホで賃貸情報を見ていたら、突然鋭い衝突音がした。何度聞いても、心臓が跳ね上がるくらい恐ろしい音だった。暑いので、寝室のふすまは開け放たれていた。私は半身を起こして暗い玄関にある扉の方を見た。二回目の衝突音がした。ノゾミも起き上がり、私にぴったりと身を寄せた。そして三回目の衝突音がした。衝突音が三回目に及ぶのは、それが初めてのことだった。四回目の衝突音がした。五回、六回と、それ以降衝突音は鳴り続けた。そして衝突音ととも、ガチャガチャとドアの取っ手を激しく回す音もした。薄暗がりの中で、扉の内側にある取っ手が激しく上下するのが見えた。ノゾミは涙を流して震えていた。私はノゾミをきつく抱きしめた。衝突音はその回数を増すごとに、どんどん大きくなっていた。振動が、壁や床、部屋全体に伝わってきた。扉の向こう側の人間は、本気で扉を破壊しようとしているようだった。
「やめてください」
私は叫び声をあげた。
「私たち、もう出ていきますから。だからもうやめて」
それからもう一度だけ鳴って、衝突音は止んだ。
沈黙が訪れたのかと思ったが、耳を澄ますと、扉の外では何やら小声で話す声がした。男性の声だった。声の主は、誰かと話しているようだった。やりとりは次第に激しさを増していき、ついに「なんだよ」と片方が声を張り上げた。そして次の瞬間「う」とも「あ」ともつかない妙なうめき声がした。それからは話し声はしなくなり、しばらくはごぽごぽとうがいをしているみたいな音がした。十秒くらいでその音も止み、今度こそ沈黙が訪れた。
私とノゾミは顔を見合わせた。私はゆっくりと立ち上がり、慎重に玄関の扉へと近付いた。息を潜めてもう一度耳を澄ましても、もはや何も聞こえなかった。あたりは、完全に夜中の静寂に包まれていた。
私は、扉にあるドアスコープに目をつけた。普段ならそこに広がる扉前の光景が、ない。私はドアスコープから目を離し、そこを人差し指でほじるようにしてからもう一度見た。やはり何も見えない。レンズ全体が赤い幕のようなもので覆われていて、扉前の蛍光灯の光をぼんやり透過させている。
私は扉のチェーンを外し、鍵を回して開錠してからゆっくり扉を押し開けた。
眼前には地獄が広がっていた。
おびただしい量の血飛沫が、側壁や向いの201の扉、天井の蛍光灯にまで飛び散っていた。地面には一面に血だまりが広がっており、巨大な赤い鏡のようになっていた。それが幾筋もの細い流れとなって階段を伝い落ち、1階と2階の間にある踊り場にももう一つの血だまりができていた。
私は後ずさり、玄関と部屋の段差につまずいて、床に尻を打ちつけた。そして、私はそのまましばらくぼんやりとした。
「お母さん」と呼びかけられて、私は正気を取り戻した。振り返ると、いつの間にか背後にノゾミが立っていた。
「どうしたの?」
私は「大丈夫だよ」と言った。「お布団に戻ってて」
ノゾミは肯き、寝室へと戻って行った。
私は、がくがくと震える膝を押さえて立ち上がり、再び鍵を回して施錠した。
ノゾミに添い寝をしていると、車のエンジン音が近づいてきて、カーテンのすき間から明滅する赤い光が射し込んできた。電話をしてから二十分くらいのことだった。窓のすぐ下あたりでエンジンは切れ、それから数十秒後にインターホンの音がした。室内機で「はい」と応答すると、相手は「中井戸警察です」と言った。
玄関に行ってドアスコープを覗くと制服姿の警察官が二人立っていた。私は鍵を回して扉を開けた。
「こんばんは」と二人の警察官は会釈した。
「えっと、こちらの扉の前あたりに、大量の血痕があるというお話だったんですが」
私は、「ええ、もう壁も地面もすごいことになっていて」と言った。
「なるほど。それは確かにこちらの階ですか?」
私は「え?」と聞き返した。私には、その質問の意味が分かりかねていた。
「もちろんですよ。だってそこらじゅうが」と警察官の足もとを見て、私は自分の目を疑った。
血の海は消えていた。私は「すいません」と二人の間から外に顔を出し、壁や天井、正面の扉を見まわした。どこにも、一滴たりとも血は残っていなかった。
「信じられない。確かに、さっきまでは血の海だったんです。この世の光景とは思えないような・・・・・・」
私は混乱した。混乱しながらも、シマクラさんと思しき人から何度も扉を鳴らされて、それから扉の前が一面血の海になるまでの経緯をできるだけ詳しく話そうとした。
二人の警察官は、明らかに困惑しているようだった。通報の根拠となる血だまりが無いのだから、それも無理のないことだった。
二人はその場で軽く打ち合わせをし、「深夜ですが、一応、この戸口のお宅に聞き込みをします」と言い、一度扉を閉め去った。
三十分後くらいに二人は再びやって来て、「何件かはお話を聞くことできたんですが、皆さん物音は何も聞いていないとのことでした」と言った。
私はますます混乱した。扉の衝撃音は、とんでもなく大きい音だった。それに怒鳴り声もしたはずだ。例え寝ていたところで、全く気が付かないというのは有り得ない。
「大丈夫ですか?」と、警察官の一人が言った。
「何がですか?」と私は言った。
「顔色がかなりお悪いようですが。お疲れですか?」
「疲れてはいますけど・・・・・・」
二人の警察官は、哀れみの目を私に向けていた。二人はもはや、血の海どころか衝突音すら信じていないようだった。興奮し、説明のままならない私だけじゃなく、そこにノゾミの証言があったなら、彼らの態度は変わったのかもしれない。けれどノゾミは二人が他のお宅を回る間に力尽きてぐっすり眠りこんでいた。私には、せっかく眠った彼女を起こせなかった。
あっさり引き上げるのも気が引けたのか、警察官たちは何度か同じような質問をした。けれど私の答えは同じで、彼らはそれ聞く度、困惑した様子を見せるだけだった。
最後に「また何かありましたら連絡下さい」と言い残し、二人は扉の外へと出て行った。
その日を境に夜中の衝撃音はぴったりと止み、郵便受けに、「出ていけ」の手紙が入ることもなくなった。結局、あの日の出来事がなんだったのか、それからも一切わからなかった。私たちはしばらく落ち着かない日々を過ごしたが、それでも日毎に恐怖は薄れていき、平和な日常を少しずつ取り戻していった。
戸口の出入口を出た瞬間、「いってらっしゃい」とすぐ後ろでノゾミの声がした。振り向くと、ノゾミは102のベランダから手を振っていた。
「いってきます」と私は手を振り返した。
ノゾミの隣には、ヤマガタさんの奥さんが立っていた。奥さんも、「いってらっしゃい」と言った。私は、「お願いします」と会釈した。
小学校はすでに夏休みに入っていた。当初は、私が仕事の間、ノゾミには普段通り学童へ通ってもらうつもりだったのだが、ヤマガタさんの奥さんとふと立ち話をした際に、「よかったらうちに来たらどう?」と誘われた。私としては、やっぱりそこまで親しくない個人のお宅に娘を預けるのは不安だったので、できれば学童に行って欲しかったのだが、他でもないノゾミがヤマガタさん宅に行くことを望んだので、しかたなくお言葉に甘えることにした。
前を向くと、ヤマガタさんの夫が生垣の根本に屈んで何やらやっていた。通り過ぎる際、後ろからその手もとを確認すると、とても立派な花壇が出来ていた。土は深くから掘り返されて黒々とし、周りを赤茶色のレンガで囲まれていた。私が思わず「すごい」と言うと、ヤマガタさんの夫は首にかけたタオルで顔を拭いながら立ち上がり、「ここに何でも植えなさい」と言った。
私は「ありがとうございます」と頭を下げ、そしてすぐにノゾミの方を見た。ノゾミはまだベランダにいた。ジャンプしながら、「ありがとう」と声をはり上げた。
ヤマガタさんは照れ臭そうにうなずいて、再び花壇のところにしゃがんで手を動かした。明らかに、白ひげの口もとが綻んでいた。
その時、ばたばたと真上から鳥の羽ばたく音がした。見上げると、302のベランダの手すりに鳩が三羽も止まっていた。物干しハンガーで、赤いバンダナが揺れていた。それはもう、かれこれ一ヶ月くらいそのままになっていた。
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