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【短編小説】空を飛ぶ夢

 いってきますとコヨリが唇をとんがらせて目を閉じた。見送りの僕は身をのりだして玄関にいるコヨリにキスをした。コヨリは目をあけるとため息をつき、「なんだかなげやり」とつぶやいた。
 
「なんでさ」
「そうやってあつかいがどんどん雑になっていくんだね。まるで私がいることがあたりまえみたいになっちゃって」
 
 コヨリはぶつぶつとぼやきながら扉をあけて出ていった。いったい何が気にいらないのだろう。僕は彼女がなぜそんなことを言うのかわからない。
 コロナ禍以降、僕の会社もコヨリの会社も在宅勤務制度が導入されていた。二人とも基本的には家で仕事して、どうしても必要の際だけ出社した。コヨリは今日、会社で大事な会議があるので出社した。
 僕はリビングに戻りテレビをつけて、なんとなく朝の情報番組を眺めていた。そして九時五分前に自分の部屋に入ってノートパソコンを起動した。
 ノートパソコンのディスプレイを眺めたまま、僕はなかなか仕事に取りかかれないでいた。
 なぜなら昨夜、空を飛ぶ夢を見たからだ。
 経験上、空を飛ぶ夢を見た翌日には必ず不幸なことが起きるのだ。もちろん見なくたって悪いことが起きることもあるのだけれど、見た日の翌日には必ず起きるのだ。
 
 最初に空を飛ぶ夢を見たのは小学校四年生の頃だった。僕は自分の住む街を見下ろしながら、飛行機が飛ぶくらいの高さをすいすい気持ちよく飛んでいた。
 次の日、飼い犬のクマが事故死した。雷の音に驚き、家のそとに飛び出したところを車に撥ねられたのだ。
 クマは僕にとてもなついていて、僕もクマのことをとてもかわいがっていた。大切な家族の突然の死は、まだ子供だった僕にはあまりに過酷で受けいれがたいことだった。
 
 次に見たのはだいぶあと、高校三年生の頃だった。僕はビルの十階くらいの高さをふわふわ風船みたいに漂いながら、マンションやオフィスビルの窓に映る人々の様子を眺めていた。
 次の日、僕は駅の階段を踏みはずして足をねん挫した。僕はサッカー部のレギュラーだったが、それのせいで高校最後の試合をふいにした。
 
 その次に見たのは二年ほど前、コヨリと結婚したばかりのころだった。僕は一軒家の屋根ぐらいの高さを鳥のように旋回し、交差点の横断歩道を行き交う人々を眺めていた。
 次の日、僕はコヨリにものすごく怒られた。
 ことの経緯はこうだった。
 僕は最寄り駅で偶然大学時代の彼女に出くわした。彼女とはべつにケンカ別れではなかったので、久しぶりに会ったところで気まずさはない。懐かしさのあまり思い出話に花が咲き、そのまま「かるく飲もう」という話になった。近くに行きつけのバーがあったので、僕は彼女をそこへ連れて行くことにした。コヨリには「大学時代の友だちと飲む」とLineした。お互い既婚だったので、二十二時ごろにはお開きにして引き上げたのだけれど、玄関の扉を開けるとコヨリが仁王立ちで待ち構えていた。
 
「これ、どういう事でしょう」
 
 コヨリがかかげたスマホには、僕が元カノの頭をなでる画像が映しだされていた。
 バーは僕だけではなくコヨリの行きつけでもあった。マスターはもちろん常連客にも共通の知り合いはいる。そのうちの一人の女性が僕たちの様子を盗み撮り、わざわざ会話の内容まで添えLineでコヨリに送りつけていた。
 
「ずいぶん親身に相談を聞いていたそうですね」
「私の悪口も言っていたそうですね」
 
 コヨリは顏もからだも手も小っちゃい。鼻も口も小さく色白で、目は漢数字の「いち」みたいに細かった。その目が満月みたいにまるく見開かれていて、暗い玄関でらんらんと輝いている。
 そして不気味なほど冷静に、まるでアナウンサーのような敬語で問い詰めてくる。
 僕は背中に冷たい汗がつたっていた。たしかに元カノとは多少は盛り上がったかもしれないが、やましいことなど何ひとつない。だいたい下心があればわざわざそんな知り合いの多いバーに連れていくわけがない。僕はそう必死に弁解したのだけれど、だめだった。コヨリの怒りはおさまらずに、その日から約一週間、口をきいてもらえなかった。だから生活をする上で、どうしても伝えたいことがある時にはLineで伝達したのだけれど、彼女の返事はまるでAIかと思うくらい、無機質な敬語のままだった。
 わざわざコヨリにチクった女性を恨みつつも、コヨリの知らなかった怖い一面を思い知り、僕はもう二度とあんな軽はずみなことはしないと決意した。
 
 そして昨夜。
 最近では通ることもめっきり減ってしまった、駅までの通勤路を僕は歩いていた。いつもの児童公園にいつもの歩道橋、それからいつもの古いスーパーマーケット……。けれども何だか変だった。信号機が手の届きそうなところにあったり、道行く人たちの頭頂部がやたらとよく見える。ふと気がつくと、僕は二メートルほどだけ宙に浮いていた。
 体が浮いている以外は普段と変わるところは何もない。足を動かせば、地面を歩くときと同じでちゃんと前に進むのだ。僕は戸惑いながらも、会社に行くため駅の方へと進み続けていた。
 
 なぜ昨夜、空を飛ぶ夢を見てしまったのか。実は僕には思いあたることがある。
 今日、父が病院に行っている。先日の人間ドックで肝臓の数値に異常が出てしまい、彼は再検査をうけていた。今日、その結果が分かることになっている。時間は朝いちばんと聞いているので、多少遅れたところで昼頃までには終わるはずだった。父には病院から出たらすぐに電話をよこすようあらかじめ言ってある。
 今の僕には結果を待つ以外にできることはない。だからとりあえずは目先の仕事に意識を集中しようとしたのだけれど、気がついたらいつのまにか父のことを考え手が止まっていた。結局、午前中のあいだはほとんど仕事を進められずに、昼休みの時間になっていた。
 僕はリビングに行ってテレビをつけて、残り物を求めて冷蔵庫を開けてみた。なかには調味料やジャムの便ばかりで食べられそうなものは見当たらない。しかたがないのでコンビニでも行くかとあきらめかけたとき、ドアポケットにケース入りのシュークリームがおさめられているのに気がついた。二つ入りのプラスチックケースに、一つだけ残されている。
 僕はため息をついた。
 コヨリはこうやって自分の食べ残しを冷蔵庫に適当に突っこんだまま、いつもその存在を忘れてしまうのだ。そのままだともちろん腐るので、そういうあんぱんとかおにぎりを片づけるのはいつも僕だった。コヨリはそういった物を入れたことすら忘れているのでそれらが消えたことにも気づかない。
 コヨリはそういう食べ物のことに限らず全てにおいてアバウトだった。
僕とコヨリは僕の妹を介して知り合った。妹とコヨリは大学からの友だちだ。「誰かいい人いない?」とコヨリに訊ねられた妹が、ちょうどフリーで手近な僕をマッチングした。
 僕はまるで日本猫みたいなコヨリを一目で気に入った。服やゲームが好きなところも一緒だったので、僕たちはすぐに仲良くなりつき合った。
 コヨリは料理のときに、ちゃんと調味料を計らなかった。味見もしなかった。だから同じ料理を作っても、毎回味が違っていた。詰め替え用の食器用洗剤とかボディーソープに関しても、平気で前と違う香りのものを補充したりした。
 それは反面、細かいことは気にしないという長所でもある。僕はどちらかというと几帳面だったので、コヨリのそういう自分には無い、おおらかなところにも惹かれていた。
 けれど結婚して二年も一緒に生活すると、今度はそういうところがだんだんと煩わしく感じられてきた。
 とくに最近は互いに在宅勤務でよりいっそう同じ空間で過ごす時間が多くなり、欠点が余計に目につくようになっていた。
 我慢をして不満をためこむのは僕の精神衛生上にはもちろん、彼女のためにも良いことではない。よって僕は気がついたらその場でやんわり指摘していたのだが、それでもコヨリは拗ねてしまって、なんだか気まずくなるのが常だった。
 僕はしかたなくシュークリームを口に入れ、コーヒーを沸かして気持ちを落ち着けようとした。壁掛け時計は十二時半を指していた。いくらなんでも遅すぎる。もしや検査の結果があまりに悪く、ショックで父は連絡すらできないのではなかろうか。そんな不安で居てもたってもいられなくなり、僕は父に電話をかけることにした。
 
「もしもし」
 
 五回ほどコールしたところで父は出た。
 
「もしもし。シンイチだけど」
「おお、すまん連絡が遅くなって。思ったよりも待たされてな」
「……で、どうだった?」
 
「うん」と言ったきり、父はなかなか答えようとはしなかった。僕は、父の次の言葉に備えて身構えた。
 
「異常なしだった」
 
 僕はみるみる体からちからが抜ける感覚がした。そして気がついたらその場で椅子にへたりこんでいた。
 
「やっぱり人間ドックの前日に飲みすぎたのが良くなかったらしい」
 
 当たり前だろう。そういう思い当たるフシがあるならあらかじめ伝えておいて欲しかった。そうすれば、何か悪い病気の予兆じゃないかとこんなに気をもまずに済んだのだ。

「なんなんだよ、もう」

 僕の呆れた様子に父は気まずくなったようだった。というわけで俺は健康だ、余計な心配かけてすまなかったと彼は逃げるように電話を切り上げた。
 予知夢は父のことではなかったようだった。けれどほっとしたのも束の間で、僕の胸には再び不安がわいてきた。今まで予知夢が外れたことは一度もない。そして今日という日はまだ長い。つまりまだこれから不幸が起きるということだ。仕事は閑散期で大きなミスを起こすような状況にない。それにIT関連のうちの会社はこのご時世でも業績は安定しており、今のところ左遷や異動の恐れもない。
 昼休みはすでに終わりかけていた。何も思いあたることがない以上、備えられることは何もない。もやもやとした気持ちを振り払うようにして立ち上がり、ふとテレビに映し出されたニュースに目がいった。
 
「……今日午前十時ごろ、品川駅高輪口前で、横断歩道を歩いていた女性がトラックに跳ねられました。女性は二十代くらいと見られ、意識不明の重体です。警察は女性の身元を確認すると共に……」
 
 テレビには横断歩道に落ちたスカイブルーの布製マスクが映し出されていた。そのマスクはコヨリが普段つけているのと同じものだった。それに彼女の職場は品川だった。
 僕は強烈に嫌な予感に襲われ、急いでコヨリに電話した。
 
「まるで私がいることがあたりまえみたいになっちゃって」
 
 呼び出し音が鳴りつづけるあいだ、僕の頭の中ではコヨリのその言葉が回り続けていた。僕はなぜ、一番大切な人を真っ先に思いつけなかったのか。僕は自分の愚かさを責めながら、祈るような気持ちでコヨリの声が聞こえてくるのを待っていた。
 
「○○お留守番サービスです。ピーという発信音の後に……」
 
 僕は電話を切った。悠長にメッセージをいれている場合ではない。スウェットの上下のまま急いで玄関へ行き、靴箱からスニーカーを取り出す時間も惜しくて出しっぱなしのサンダルに足をつっこんだ時、がちゃりと扉の鍵が開く音がした。
 
「ただいま」
 
 開いた扉からはコヨリが姿を現した。
 
「……どうしたの?」
 
 コヨリが唖然として立ち尽くす僕を見て言った。
 
「今日は会議だけだからお昼には帰るって……。言ってなかったっけ?」
 
 僕はおもいきりコヨリを抱きしめた。そして彼女の顔を両手ではさんでぶちゅぶちゅと唇や鼻の頭を吸いとった。コヨリは「ひええ」と僕の手をふりほどいてリビングの方に逃げていき、くるりと振り返って肩で息をしながら僕を見た。
 
「……一体?」
 
 僕は今の行動の理由をこと細かにコヨリに説明した。空を飛ぶ夢のことから今しがた見たニュースのことまで、全部をだ。
 コヨリは僕の話を腕組みをしながら神妙な面持ちで聞いていた。僕が話し終えても少しのあいだ考え込んでいて、それからきっぱり「思い過ごしね」と言った。
 夢のうちいくつかはまったくの偶然で、いくつかはもともと抱いていた不安が僕にそういう夢を見せたのだと彼女は主張した。たしかに昨夜の夢なんかはそれで説明がつく。
 
「つまり、お父さんも私も普段から大事にしなきゃいけないってこと」
 
 そう言うとコヨリは洗面所に行き、手洗いやらうがいやらを済ませて戻ってきた。
 
「お昼食べた?」
「うん。コヨリは?」
「食べてきたけど……」
 
 わたしにはまだアレがあるのよと言いながら、コヨリはうきうきとした様子で冷蔵庫に手をかけた。
 
「期間限定発売の……」
 
 コヨリは「あれ?」「あれ?」としばらく冷蔵庫を物色してから、やがて静かに冷蔵庫を閉じて僕のほうを見た。
 
「ここに入っていたシュークリーム知りません?」
 
 彼女の目は満月のようにまるく見開かれていた。


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