【短編小説】なんでもやってあげます券
空には鉛色の雲が厚く垂れこめている。じめじめとした空気はずっしり重く、そして熱い。呼吸をすると息が詰まる感覚がする。歩く振動にあわせてシャツが肌に張り付いたり剥がれたりする。
丘の斜面は一軒家が建ち並んでいる住宅街で、僕はそこを一人で歩いていた。間隔の広い街灯が、そのあかりでぼんやり塀や生け垣を浮かび上がらせている。深夜なので窓明かりはない。
丘の頂上にはうっそうとした森が残されていて、僕の住むマンションはちょうどその森と住宅街の境界に建っていた。
マンションの廊下を歩いていると、すぐ裏手にある森の方から聞いたことのない鳥の鳴き声が聞こえてきた。とても奇怪な声だった。それにこんなに夜遅くに鳥が鳴いているのを僕はあまり聞いたことがない。
なんだかいつもと違う嫌な感覚がして、僕は足早に廊下をやり過ごした。自室の前にたどりつき、鍵を開け、扉の取っ手に手をかける。その時ふと足もとが目に入り、僕は思わず飛び退いた。
扉の前に、大人の手のひらくらいある蛾が死んでいる。
僕は足先でおそるおそるその死骸を押しやって、扉を開けて中に入ると後手にすぐ閉め施錠した。
電気をつけるとリビングは朝出かけた時のままだった。テーブルには皿やコーヒーカップが置きっぱなしで床には読みかけのベビー雑誌が落ちている。
妻は昨日から二駅ほど離れた彼女の実家に行っている。妊娠中の彼女は体調の好不調の波が大きくて、不調の時には元気になるまで実家で休んでもらっていた。こういう時ぐらい、僕がいつも一緒にいてあげたいところだけれど、小さい会社勤めではどうしても休みがとりづらい。それに何かあった時に駆けつけるにしても、会社のある港区からではここまで一時間以上の道のりだ。せっかく彼女の実家も近いので、現実的にはそれが一番よい方法だった。
僕はシャワーを浴びてTシャツと短パンになり、冷蔵庫から発泡酒の缶を取り出した。リビングは静まりかえっている。ここは斜面を住宅街で覆われている丘のてっぺんなので、もともと静かな場所だった。深夜なので犬の鳴き声とか車の走行音も聞こえない。
その静寂をつんざくように、例の奇怪な鳥の声がした。聞けば聞くほど気味の悪い声だった。まるで子供のうめき声のようだった。
僕は心細くなりテレビをつけようとした。けれどいつものテレビボードの上にもテーブルの上にもリモコンが見あたらない。床にも落ちていない。今朝は会社に遅れそうになり慌てて出て行ったので、どこか変なところに置いてしまったのかもしれない。結局どこを探してもリモコンを見つけることができなかったので、僕はあきらめて自分の部屋に行くことにした。
体は疲れていたのに眠くない。たぶん、発泡酒の炭酸効果でかえって頭が冴えたのと、相変わらず一定間隔に聞こえてくる鳥の声のせいだった。
僕は部屋の整理に取りかかることにした。明日は土曜日なので、無理してまで眠ることもない。妻は妊娠四ヶ月でこの家に赤ちゃんが来るのはまだ先だけれど、僕はごちゃごちゃと物が多いタチだったので、今のうちから時間を見つけては少しずつ不要なものを片づけていた。
僕はぐるりと部屋を見まわしてから本棚の横にある小引出しに手を付けることにした。三段のこの小引出しには、何となく捨てる踏ん切りがつかないものが詰め込まれていた。僕は一番上の段を引出しごと取り出した。中には古い手紙やらアルバムやらなんだかよくわからない雑貨やらがつめこまれていた。僕は発泡酒を飲みながらそれらを一つ一つ手に取った。
結婚前に妻から送られてきたの直筆の手紙。いる。取引先からおととしの年末に贈られてきた昨年分の手帳。いらない。ふんぱつして購入したドラム式洗濯機の説明書。いる。赤と緑のチェック柄の布で作られた、小さなクマのぬいぐるみ。小さなクマのぬいぐるみ……。
これってなんだったっけ?
たぶん、それにまつわる何らかの思い出があるからこそ今までとっておいたのだ。僕はクマをつまんでしげしげと見た。何となく、何となくだが見覚えがある。僕は少し酔いの回る頭を一生懸命巡らせたが結局何も出てこなかった。きっと思い出せない時点でそんなに大事なものではないのだろう。僕はクマを「いらない」の方に置くことにした。
再び奇怪な鳥の声がした。今までで一番大きな声だった。窓のすぐそばから聞こえたようだった。そしてはっきりとその声を耳にして、僕はとある可能性を考えた。
これは人の声ではなかろうか。
部屋の電気が突然明滅して消えた。僕はスマホの明かりを頼りに壁にあるスイッチの位置までたどり着こうとした。その時、再び奇怪な声がした。それはもう、ほとんど叫び声だった。びりびりと空気が震えて声の主は確実に部屋の中にいた。僕は振り返って声の方向へとスマホを向けた。きらりと光りが反射した。そこには姿見の鏡が壁に掛けられていた。
僕は腰を抜かして尻もちをつき、後頭部をパソコンデスクに打ちつけた。
鏡は血まみれの少女を映し出していた。
少女は人間とは思えないほどに丸く目を剥いて、口を裂けるほどに開いて叫び声を上げていた。額からは何筋もの血が流れて顔全体を赤く染めていた。鼻の穴や耳の穴、開かれた口から絶え間なく血が噴き出していた。
僕はたまらず叫び声をあげた。そして内側から跳ね上がるように震える体を両腕で抱いてうずくまり、こんなことは現実じゃないと思おうとした。
どれくらいの時間が過ぎたのだろう。数十分。いや、もしかしたら数秒だったのかもしれない。
部屋の電気が再び明滅して点いた。鏡は、血の気を失い石鹸のように白くなった僕の顔を映し出していた。叫び声も消えていた。窓の外からは、ジジジという夏の虫の声だけが聞こえてきた。
僕は鏡に映し出された少女を知っていた。記憶の奥底に深く沈みこんでいたその存在が、十年以上の時を経て、今日、突然目の前に立ち現れたのだ。
彼女はリンネ。小学五年生のほぼ一年間、僕と彼女は同級生だった。
クマは彼女からの贈り物だった。
それはクラスで催されたクリスマス会での、プレゼント交換でのことだった。ルールは、あらかじめ三百円以内の予算で文房具や雑貨などのプレゼントを持ち寄って、椅子を円く並べて内向きに座り、音楽が流れているあいだにそれを隣の生徒に渡していくというものだった。音楽が止んだら生徒たちも渡すのをやめ、その時手にしていたプレゼントが自分の物になる。
先生がCDプレイヤーのスイッチを押し、陽気なジングルベルにのせて生徒たちのひざの上をプレゼントが渡り歩いていく。
ところがはじまって間もなくして、生徒たちの一部からざわめきが立ち上る。綺麗な小箱や包装紙に包まれているプレゼントの中に、明らかに異質なしわくちゃの茶封筒が紛れこんでいるからだった。
「わ、何だこれ」
「汚ね」
生徒たちはまるで汚いものでも扱うかのようにその封筒をつまみ上げ、ぽいっと隣の膝の上に投げ捨てる。音楽が止まるとその封筒は自分のものになってしまうので、それが回ってきた生徒は「ひえっ」と可能な限り素早く隣に投げ渡し、それはいつの間にか罰ゲームの様相を呈してきた。
やがて音楽が止まり、教室は生徒たちの歓声と悲鳴で包まれる。僕が手にしたのは赤と緑のチェック柄、クリスマスカラーのクマだった。目と鼻には黒いビーズがあしらわれていて、首には金色の鈴をつけていた。小ぶりだけれどとてもきちんと作られていた。
僕はおそるおそるほかの生徒たちの手もとを見まわした。「あれ」はいったい誰ところに行ったのか。
「うわ、リンネちゃんそれ」と、一人の女の子のが言った。
僕はちょうど対角線上にいるリンネの方を見た。彼女は封筒を手にして難しい顔でそれを見つめていた。
僕は神を呪いたくなった。こんなにいる生徒の中からよりによって彼女の手に渡るとは。
くるくるとした栗色の髪は胸もとまで伸びていた。鼻が高くて肌が透けるように白くて大きな色素の薄い瞳を持っていた。つまるところ彼女はとんでもなく美しい。そして頭の回転が速くて気が強く、口げんかでは誰にも負けたことがない。反面、裏表が無くてお姉さん気質なところもあったので、女子からは一定の人気をあつめていた。男子は担任を含めて全員が彼女を恐れていた。
リンネはこのクラスの女帝だったのだ。
「最低」
「こんなのプレゼントじゃない」
「リンネちゃんかわいそう」
「誰がこんなのまわしたの?」
女子たちが口々に批難した。
「静かに」
先生が何度そう繰り返しても彼女たちの騒ぎはおさまらない。それが突然ぴたりとやんだのは、リンネが軽く右手をあげたからだった。
彼女は封筒に細い指を差し入れ、短冊状の紙きれを取り出して、そして一枚一枚顔の前にかざして丁寧に見た。全ての紙切れには「なんでもやってあげます券」と書かれていた。
「これ、誰が用意したの?」
リンネがあたりを見まわしつつ訊いた。ほかの生徒たちも「誰だ誰だ」とまわりを見まわして、「犯人」を見つけ出そうとした。
見つかるのはもはや時間の問題だったので、僕はうつむきながらしかたなく手をあげた。
「やっぱりそうか」
「貧乏人が」
生徒たちは悪意ある言葉を容赦なく僕に浴びせてきた。
僕の家には母親しかおらず、その暮らしはかなり苦しいものだった。普段から彼女の苦労を目の当たりにしていた僕は、プレゼントを買うお金が欲しいと言い出せなかったのだ。家の中をいくら見回してもプレゼントにできるような物は見当たらない。どうしようと悩むうちに今日をむかえてクリスマス会の時間は近づいていた。そんな時に苦し紛れに思いついたのが、幼い時に母に贈った「お手伝い券」とか「かたたたき券」のことだった。自分が他人に与えられるのものなどもはやそういう「労働」くらいしか浮かばない。僕はクリスマス会が始まる直前にノートをハサミで切り離して「何でもやってあげます券」を作り出し、ランドセルの底でくしゃくしゃにつぶれていた空の封筒に入れてそれを「プレゼント」にした。
「やめなさい」
先生が三度そう繰り返してようやく生徒たちは静まった。
「花村さん的にはどう?そのプレゼント」
先生はリンネに訊ねた。僕はおそるおそる顔を上げてリンネの方を見た。彼女は足を組み、ツンとあごを上げて僕を見下ろしていた。
「面白そうじゃない」
リンネは扇形にした「なんでもやってあげます券」をひらひらとした。
「五枚もあるし」
リンネはニヤリと微笑んだ。僕は背筋がぞっとした。
その翌日、帰りの会が終わってランドセルを持ち上げた時、リンネが僕の机にきて券を差し出した。
『私のランドセルをうちまで運びなさい』
券は点線で区切られている半券のところに指示を記入してもらい、受け取ったらそれをちぎって残りを返すという方式にした。
僕はその場でリンネの赤いランドセルを受け取り前側に彼女のを、背中に自分のものを背負うことにした。
ランドセルを前後につけて歩く僕の少し前を彼女は腰のあたりに後ろ手を組み歩いていた。ツンと前だけを見て僕の方を振り返ることはしない。ランドセルが二つになったところで重さ自体はたいしたことはない。それよりも辛いのは、周りから好奇の目を向けられることだった。下校している他の生徒たちは僕たちを見てひそひそと話したり、クスクスと笑いを押し殺したりした。たぶん彼女と僕は、お嬢様とその従者のように見えていたのだろう。そう思われてもしかたのない状況だった。
僕の住む団地を通り抜けると、すぐに一軒家の建ち並んでいる住宅街があり、その中でもひときわ大きく、目立つ屋敷に彼女は住んでいた。
家の前にたどりつくと「ありがとう」とランドセルを受け取り、彼女は大人の背よりも高い塀の内側へと消えた。
それから三日くらいあとのこと、東京には珍しく大雪が降り街は一面白一色になっていた。帰り際、リンネが再び券を手渡してきた。
『私の家の庭に、この街で一番大きな雪だるまを作りなさい』
僕は一度うちに帰ってランドセルを置き、それからリンネの家を訪ねることにした。
コンクリートの塀にあるインターホンを押すと、「はーい」という甘い声が聞こえてきた。名前を名乗ると「いらっしゃーい。ちょっと待っててね」とインターホンは切れた。
少ししてインターホンの横にある扉が開いて中からすらりとした女の人が現れた。黒い髪を後ろで一本に束ねていて、オーバーサイズの白いセーターから細い首がのびていた。まつ毛がとても長くて、なんだか鹿みたいな人だった。
「どうぞ」
塀の内側に入るといきなり広い庭が広がっていて、その後ろには大きな窓がたくさんはめこまれた現代美術館みたいな家が建っていた。庭には一面ふわふわの雪が積もっていた。リンネは家の軒先にあるガーデンチェアに腰かけていた。ピンクのモコモコのダウンを着て、白いふわふわの耳当てをして、手袋をした手には湯気のあがるティーカップを持っていた。
「お客さんよ」とリンネに告げて、鹿みたいな女性は家のなかへと戻っていった。彼女は、たぶんリンネの母親なのだろう。
リンネは晴れた空の光を反射して輝く一面の雪をまぶしそうに眺めながらいつまでも紅茶を飲んでいた。どうしたらいいのかわからなくて彼女の前に立ち尽くしていると、彼女は「どうぞ。はじめて」と言った。
僕は手はじめに野球のボールくらいの雪玉を作り、それを地面に置いて転がした。雪玉は地面の雪をべたべたと吸いつけたちまちスイカくらいの大きさになり、気がつくとバランスボールくらいになっていた。そうなると思い切りちからをこめたところでもはやほとんど動かない。僕はすぐに息が乱れて額に汗がにじんできた。
「この街で一番大きな雪だるまって、どれくらいの大きさなんだろう」
僕はリンネに訊いてみた。リンネは少し考えてから「そうね。少なくともうちのお父さんよりは大きいんじゃない?」と言った。「君のお父さんってどれくらい?」と聞こうとしたら、塀の出入口の方から「ただいま」と大きな声がした。振り返ると、栗色のくるくるとした髪の毛をはやして顔じゅう髭だらけの男の人が立っていた。リンネはその人を指して「あれくらい」と言った。
男の人は僕たちに気づくと雪をものともせずに大股でやってきて、「ロバートです」と言って僕の手をとり、とても力強く握りしめてきた。ロバートさんは見上げるほど大きくて、まるで童話に出てくる木こりか猟師のようだった。
ロバートさんは僕とリンネを見比べ「何やってるの?」と訊いた。僕は、リンネに頼まれあなたよりも大きな雪だるまを作るところだと言った。ロバートさんは「おう」と少し驚いた様子を見せたが、すぐに作りかけの雪だるまに手をかけ、「僕も手伝う」と言った。ロバートさんが力をこめると、あんなに重たかった雪だるまはいとも簡単に転がった。
大きな雪玉を二つ重ねてもまだまだ高さが足りなかったので、その上にさらにもう一つの雪玉を重ね、結局雪だるまは三段になった。その頃には既に日が傾きかけていた。僕はほとんど腕が上がらなくなり、ロバートさんはダウンを脱いでネルシャツ一枚になっていた。最後にあたまにバケツをのせると、雪だるまはついにロバートさんの背を超えた。
「どう?」
僕はリンネにおそるおそる訊いた。退屈そうにしていたリンネは大きく伸びをしてからそのままその両腕でまるをした。
ロバートさんは「へい」とハイタッチを求めてきた。それに応じてばちんと手を打ち合わせると、僕はその威力に耐え切れずにばたりと仰向けに転がった。彼の力が強すぎたのと、僕がもう、へとへとに疲れていたせいだった。
ロバートさんはぐいと僕を引き起こし、丸太のように太い毛むくじゃらの腕で僕の肩を抱き寄せた。そして僕の顔をのぞきこんで囁くようにして言った。
「苦労するぞ」
その日の空のように青い瞳は全く笑っていなかった。
それからさらに一週間くらいあとのこと、リンネは体育の授業のバスケットボールで足をひねって怪我をした。怪我の程度がそれほどひどくなかったので、彼女は保健室で応急手当をしてその後の授業にも参加した。
僕は彼女が足首に包帯をして教室に現れた時点で、嫌な予感しかしなかった。そしてそれは帰りの会後に的中することになる。彼女が足を引きずりながらやって来て、僕に渡してきたなんでもやってもあげます券には、『わたしをおんぶで家まで運びなさい』と記されていた。
僕は自分のランドセルを前側にまわしてリンネを背中におんぶした。リンネは僕の首に腕をしっかり巻きつけたので、背中には彼女の胸の感触やら鼓動やらがもろに伝わってきた。長い栗色の髪が頬に触れ、その甘い香りが鼻をくすぐった。
けれどそんなことは歩きはじめてすぐにどうでもよくなった。
僕は腕がしびれて感覚がなくなり、太腿がぱんぱんに張っていた。小学生が、あまり体格の変わらない小学生を背負い歩くことなど土台無理な話だったのだ。僕は歩く速度がどんどん落ちて、しまいにはほとんど動けなくなった。
「辛いの?」
リンネが背中からきいてきた。僕はそれには答えなかった。無視したのではなく、言葉を発すること自体が難しかったのだ。僕はすでに、意識がもうろうとしていた。
「降参したい?」
リンネが僕の耳に吐息を吹き込むようにして言った。その瞬間、僕の頭のなかで、ぷちりと何かが切れる音がした。
僕は「えい」と彼女を背負いなおして思い切り駆け出した。リンネは「きゃあ」と悲鳴をあげ、いっそう強くしがみついてきた。
僕は駆け足のままリンネの家までたどりつき、そこで力尽きて膝から崩れ落ちた。
背中から降りたリンネは這いつくばる僕の顔をのぞきこみ、「ありがとう」と僕の頭をひと撫でして去った。
それからさらに一週間くらいあと、足がすっかり治ったりんねは四枚目の券を手渡してきた。
『私をこの町で一番夕日がきれいな場所に連れて行きなさい』
もちろん僕はそんな場所を知らない。だから数少ないクラスの友だちとか一応母にも訊ねてみたのだけれど、やはり誰もそんな場所はわからない。
スマホなど持っていない僕は、しかたなく図書館にあるパソコンやこの街の地図で近所の高台をチェックして、自転車でしらみつぶしに行ってみた。けれど実際に行ってみると、そこには地図には無い新しいマンションが建てられていて西の空を塞いでいたり、駐車場として使われているのでゆっくり立ち止まる場所がなかったり、なかなか「夕日スポット」と呼ぶに値するところが見つからない。もはやこの町にそんな場所は存在しないのかもしれないと諦めかけた時、僕はやっと理想的な場所を見つけることができた。
そこは住宅地の丘のてっぺんにある滑り台と砂場だけの小さな公園だった。公園の西側は急勾配の斜面になっており、空はもちろん、その下に広がる街並みまでもが一望できる。
僕はその翌日、お望みをかなえられそうだとリンネ告げた。
僕たちは一度それぞれの家に帰り、それから僕がリンネを迎えにいくことにした。僕たちの家から公園までは、そんなに離れていなかった。リンネは僕の少しうしろを大人しくついてきた。思えば彼女とそういうふうに普通に歩くのは、その時が初めてのことだった。
一月の日没はとても早くて、僕たちが公園についたころにはすでに日が傾いていた。
僕たちは公園と斜面を隔てる鉄の柵にひじをかけ、太陽が少しずつ沈んでいくのを何も言わずに見つめていた。やがて太陽が地平線に触れ、その接点から茜色が溢れ出してたちまちのうちに眼下の街並みを染め上げた。僕はリンネの方を見た。リンネは沈みゆく太陽を、まばたきも惜しむように見つめていた。その横顔も茜色に染まっていた。大きな二つの瞳には、それぞれ小さな太陽が浮かんでいた。
リンネを家の前まで送り届けたその帰り際、彼女は「またあそこに連れてって」と言った。僕は「うん」とうなずいた。
夕日の公園まではそんなに遠くない。一度行けば小学生でも覚えられる道のりだ。頭のいいリンネにそれが覚えられないとは思えない。行きたいなら一人でも行けるはすだがどうしてそんなことを言うのだろう。僕はすっかり暗くなった帰り道を一人歩きながら考えた。
けれど僕とリンネがまた一緒に夕日を見る日は来なかった。
僕はその二ヶ月後の四月、六年生になるのを機に母の実家のある山梨へ引っ越して、祖父母と一緒に暮らすことになったのだ。母は就職で上京して父と知り合い僕を生み、僕が二年生の時に離婚した。その時点で山梨に帰ることもできたのだけれど、母は僕の環境をできるだけ変えないよう、せめて小学校を卒業するまでは東京に残るつもりでいたらしい。
それを待たずして山梨に移る気になったのは、もはや母一人では、色々と物価の高い東京での生活を、それ以上続けるのは不可能だと判断したからだった。
先生からクラスメイトみんなにそのことが伝えられた日、帰り道で僕は久しぶりにリンネに呼び止められた。彼女は僕に、最後のなんでもやってあげます券を差し出した。
『引っ越しをやめなさい』
リンネはうつむき下唇をかんでいた。僕は首を横に振り、「それは無理なんだ」と言った。
「こればっかりは僕の意思じゃ決められない」
リンネは券をくしゃくしゃに握りつぶして地面に捨てて、何も言わずに立ち去った。
それが彼女と交わした最後のやり取りだった。
リンネの訃報が届いたのは、山梨に引っ越してから一ヶ月くらい経った頃だった。元クラスメイトの母親が、引っ越したうちの母親にもメールで知らせてくれたのだ。
葬式はその翌日だったが、僕たちは急遽東京に戻ることにした。
リンネは交通事故で亡くなった。僕たちが事前に知らされていたのはそれだけだった。
当日、葬儀が行われる教会に着くと、その前には元クラスメイトやその親で人だかりができていた。人々はリンネの死んだ状況に関してひそひそと噂話を繰り広げていた。僕にも聞き取れたのは次のようなことだった。
・リンネは登校中に信号無視のダンプカーに撥ねられた。
・即死した。
教会の一番奥の壁には大きな木製の十字架がかけられており、その下にはリンネの遺影がたてられていた。そしてさらにその下には色とりどりの供花に囲まれている、白い棺桶が据えられていた。
棺桶の前では年老いた女性が黒いスーツ姿のロバートさんに、「お別れのまえにリンネのお顔を見たいのよ」と涙ながらに訴えていた。
ロバートさんはその女性の肩に手を置き、静かに首を横に振っていた。
「あなたのなかで、リンネは綺麗なままでいてほしいんです」
リンネの母親は会衆席の最前列にいて、両手で顔を覆い、嗚咽の声を漏らしていた。
僕と母は会衆席の真ん中くらいの列に腰かけていた。まわりを見渡すと、元クラスメイトとその母親と思しき組み合わせが多かった。大人たちは神妙な面持ちをして、なかにはハンカチで涙をぬぐう人もいた。子供たちはみな青ざめていて、怯えるようにうつむいていた。
そう、僕も怯えていた。子供たちはみなリンネが死んだ悲しみよりも、同じ空間にある白い棺桶のなかに、おそらく無残に破壊されたであろう遺体がおさめられているという事実に、恐怖を感じていた。
子供たちには無理のないことだったのかもしれない。つい前日まで当たり前のようにともに過ごしていた友達が、いつもの通学路で突然ダンプカーに轢き殺されてしまうのだ。それはあまりにも特殊で衝撃的なことだった。
その日以来、僕はなるべくリンネのことを思い出さないようにした。彼女との出来事を思い出すと、次の瞬間にはどうしても血塗られた彼女の顔を思い浮かべてしまうのだ。
僕は教会にあった彼女の遺影、ステンドグラス、美しい供花に囲まれていた白い棺桶のことを忘れようとした。
そして彼女の赤いランドセルやものすごく大きな雪だるま、背中に感じた息づかいや茜色に染まる横顔のことも忘れようとした。
その後、僕は山梨で高校まで過ごして就職を機にまた一人で東京に来た。そして職場で妻と知り合い結婚することになる。
僕はだんだんとリンネを思い出すこともなくなりいつのまにか完全に忘れていた。
確かにあった出来事なのに、その記憶は僕の心の奥底に沈みこんで、まるではじめから無かったように処理されていた。
僕はクリスマスカラーのクマを見つめていた。このクマを久しぶりに見かけたことをきっかけとして、リンネの記憶が甦ったのか。いや、きっとそれだけではない。今までも引っ越しなどで部屋を整理するときに、僕はクマを見かけているはずだった。今日突然彼女が現れたのには、それに加えてきっと何か違う理由があるのだろう。
僕はふと思い当たることがあり、たちまち背筋が凍るような感覚がした。
子供ができたからではなかろうか。
僕は彼女と再び夕日を観るという約束を果たしていない。そして最後の券に書かれていた、「引っ越しをやめなさい」という指示にも従えていない。
もし彼女が僕に恨みを抱いたまま亡くなったのなら、その怨念は僕に何らかの復讐を試みている可能性がある。
妻や子供に危害が及ぶのを、僕は何よりも恐れていた。
それだけは何としても防がなくてはならない。
翌日は土曜日だった。実家の妻からはすっかり体調が良くなったという連絡がきた。僕はひとまずほっとした。
本来ならその日は妻と一緒に妊婦検診に行くことになっていた。うちには車がなかったので、検診の際にはいつも彼女の母親が車を出してくれ、僕たちを病院まで運んでくれていた。
僕は妻に電話して、「申しわけないけど急な仕事で行けなくなった」と言った。「今回はお母さんと二人で行ってきてほしい」
妻は少し不服そうに「わかった」と言った。僕だって、エコー検査できっと前よりも大きくなったであろう赤ちゃんを見るのを楽しみにしていた。けれど僕には急いでやるべきことがある。一刻もはやくリンネに会って、彼女の気持ちを鎮めなくてはならない。
当時のクライメイトで今も連絡を取り合っている人間はいない。僕の母も、たぶん当時の知り合いの連絡先など残してはいないだろう。SNSで調べるにも僕はリンネの両親のフルネームを知らない。
連絡が取れない以上、もはや彼女たちの家を直接訪ねる方法しか残されていない。
小学校の頃に暮らしていた街まで家から電車で三十分ほどだった。僕は記憶をたよりにリンネの家を訪ねることにした。
住宅街の様子はほとんど前と変わっていなかった。ただ、前は空き地だったところにも新しい家が建ち、全体的にその密集度が高まっていた。
リンネの家には迷わずたどりつくことができた。高いコンクリートの塀は、記憶よりも低くて少し汚れていた。
インターホンを押すと、「はーい」というはるか昔に聞き覚えのある女性の声がした。
「突然すいません。小学五年生の時に、リンネちゃんと同じクラスにいた上杉です」
インターホンは少しのあいだ沈黙し、それから「えっと……」と戸惑うような声が聞こえてきた。
「あの、お宅の庭で雪だるまを作らせてもらったことのある……」
女性は「ああ」と高い声を出す。
「偶然近くを通りましたもので、なんというかその……。リンネちゃんに久しぶりに手を合わせたいと言うのもあれですけれど」
デリカシーに欠けているのは承知の上だった。けれど僕にはそれ以外の口実が浮かばない。「ちょっと待ってくださいね」とインターホンは切れ、少ししてからその横の扉が開いて女性が現れた。女性はリンネの母親だった。黒い髪を後ろで一本に束ねていて、紺色のワンピースを身に着けていた。見た目は記憶とほとんど変わらなかった。ただ前よりもさらに痩せて色白になり、鹿というより鶴のようだった。「お久しぶりです」と僕が頭を下げると、彼女も「久しぶりね」と微笑んだ。彼女は僕の頭から足先を眺め、「大きくなったわね」と言った。僕は何とこたえてよいかわからず「いやあ」とだけ言った。彼女は「どうぞ」と中に入るよう促した。
前に来た時には雪で一面真っ白だった庭は、今は瑞々しい緑色の芝生に覆われていた。リンネが雪だるまを作る僕たちを眺めながら腰かけていたガーデンチェアは、あの時と同じ軒先で、遺跡のように佇んでいた。
リビングはとても広かった。高い天井には風車のようなシーリングファンが取り付けられていて、音もなく緩やかに空気をかき回していた。壁には絵画や写真などは掛けられておらずにまっさらで、ソファーやダイニングセットはその壁と同じ白で統一されていた。インテリアは最低限のものにおさえられており、なんだか何かの療養施設のようだった。
庭にも玄関にもこのリビングにも、他に人が住んでいる気配がない。もしかしたらロバートさんはもうここにはいないのかもしれない。
左側の壁際には大きな平面テレビが据えられていて、そのすぐ横には白いサイドボードが置かれていた。そしてその上では一輪挿しに赤いバラが生けられており、その横でリンネは勝気な笑みを浮かべていた。
思い出の彼女は妖しくとても大人びていた。けれど写真の彼女はまだあどけなく、紛れもなく小学生だった。
リンネの母親が、「そういえばお渡ししたいものがあったんです」と、サイドボードの二番目の引出しを開けた。
「僕にですか?」
「ええ」
彼女は淡い水色の封筒を取り出し僕に手渡した。差出人は「花村リンネ」になっている。裏返して宛名のところを見ると、そこには僕が以前住んでいた山梨の住所と僕の名前が記されていた。
「リンネが亡くなったあと、彼女の部屋を片づけていて見つかりました。リンネはそれをあなたに送るつもりでいたようです」
封筒のおもて側にはちゃんと切手が貼られていた。
「あなた宛ての手紙です。だからこれはあなたに差し上げます」
そう言うと、リンネの母親はリビングの奥にあるキッチンらしきスペースへと消えた。少ししてカチャカチャと食器の触れ合う音が聞こえてきたので、たぶん、僕にお茶を出そうとしてくれているのだろう。
僕は封筒の封を慎重に、はじから少しずつ剥がしていった。中には便箋ではなく、くしゃくしゃの紙切れがおさめられていた。
紙切れはなんでもやってあげます券だった。
券には『引っ越しをやめなさい』と書きこまれていて、それには横棒線が引かれて取り消されていた。そしてその下にはこう書き足されていた。
『私のことをずっと忘れないでいてね』
僕は券を胸に抱きしめた。
夕日を見たあと「またあそこに連れてって」と言われてから、僕は気がつくといつもリンネのことを見つめていた。授業中も給食の時間も掃除の時間も見つめていたのでさすがにたまには目が合うのだけれど、その度に僕は慌てて目をそらして違うところを見ているふりをした。
見つめるばかりではなく僕は彼女に声をかけようとも試みた。彼女を、またあの公園に誘いたかったのだ。けれど彼女はいつも複数の女子に囲まれていて、とても話しかけることなど無理だった。
とある日の帰り際、彼女と二人きりになるまたとない機会が訪れた。帰りの会が終わってほかの生徒たちは蜘蛛の子を散らすように出て行って、教室には彼女と僕だけが取り残されていた。
彼女は教科書とノートをゆっくりランドセルにしまい、ゆっくりダッフルコートに袖を通してから一つ一つ丁寧にボタンをしめていた。時間はじゅうぶんあったはずだった。なのにそれでも僕は声をかけられずに、彼女は教室のそとへ出て行った。
「またあそこに連れてって」と言ってきたのは彼女なのだから、お望み通りにそうすればいい。「また行こう」と一言声をかければそれでいい。ただそれだけのことなのに、僕にはそれがどうしてもできないでいた。いざ話しかけようとすると、耳が燃えるように熱くなって足は石のように固まった。
「券を使ってくれたらなあ」
リンネが券を持ってやって来るのがあんなに恐ろしかったのに、僕はいつの間にかそれを願うようになっていた。
僕の胸に、その時の切ない痛みが甦っていた。
そう。リンネは僕の初ての人だった。
僕はそんな大切な思い出までも、記憶の奥底に沈めていた。美しい本当のリンネを、十年以上も閉じ込めていた。
僕はふと視線を感じて辺りを見回した。リビングには誰もいないはずだった。視線はすぐ隣にある平面テレビから投げかけられていた。漆黒のディスプレイにはリンネの姿が浮いていた。あの時の美しい姿のままだった。リンネは上目遣いで僕を見つめていた。そして少し頬を膨らませていた。彼女はふてくされているようだった。
「本当にごめん」
僕はリンネに謝った。
「僕はもう、決して君のことを忘れない」
僕はくしゃくしゃの券の半券をちぎり、そう言った。
リンネの大きな瞳が揺らめいた。そして彼女は口に手をあてうつむいた。体が小刻みに震えていた。
泣いているのかと思ったら、違った。彼女は「くくく」と必死に笑いを押し殺していた。
そしてそのままだんだんとその姿を薄くして、やがては完全に消えてなくなった。
リンネの母親にお礼を言って、僕は彼女たちの家をあとにした。
住宅街を歩いていると、ポケットからスマホの着信音がした。取り出して見ると、ディスプレイには妻の名前が表示されていた。
「もしもし」
「もしもし。今日ね、赤ちゃんの性別が分かったんだよ」
妻の声は弾んでいた。
「どっちだと思う?」
空はずっと前に、雪だるまを作らされたあの日のように澄んでいた。
僕はロバートさんの瞳を思い出していた。
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