俺について
俺について
俺は自分がないとも言える。
自分がないからこそ、捨てようとしているからこそ他者への期待、羨望が強い。
自分なんかよりも他者の方が良いものを持っていて、それが欲しいし、見抜きたいし、聞きたいし、見たいと思っている。そして、それを引き出すのも得意だ。
自己理解が深い者こそが他者を捉えられるようになることが最近分かってきた。
みんな俺のことを見て評価する時に、「俺が何が出来て何が出来ない」という切り口で考える人と、「「自分」はこれを大事にしていて、それに当てはまっているから俺のことを良く/悪く思う」というパターンがある。
例えば、もう俺が仕事ができないから「出来ない人だ」と評価する人もいれば、俺が自己犠牲が強いから「こいつは、自分よりも他の人のことを優先して考えられるんだ」とか「性格が良い」と表現する人もいる
「自分がなさそうだ」という人もいれば、「愛情がある、友達想いだ」という人もいる
逆に、俺が人への気遣いが苦手なのを見て「お前は、自分のことしか考えていない」という人もいる
お世辞しか言わない人もいれば、
人に騙されそうだと思う人であれば、「こいつは女に騙されそうだ」、「優しいから、何でもうんうん言いそう」と言う人もいる。「どうでもいい」、とか「どうも思わない」って人もいれば、「面白い、なかなかいない」とか言ってくれる人もいる😆
こういう時は、その人の美意識や大事にしている風潮、価値観に沿って俺に対して合っている、素敵だなと思ってくれている人にのみ媚びていく、と言うかこっちから大事にしていってもいいんではないかとは、個人的には思う
しかし、俺には自分を捨てる気持ちがあることから果たして俺のことを大事にしない人に対して全部見捨てるのか、って言ったらその行動は取らないとは今の所思ってる。。わからん、そこは 自分でもわからんもん。そんなん
だけど、俺ってなんだろう
俺の大事にしていることは、「俺は一人では絶対に全てのことに対応できない、孤独は恐ろしい」と考えている
一度、本気で一人だけでどこまでいるのか試そうとしたことがあった。一人の力で、どこまで勉強でも生活でも精神面でも行けるのか、自分の楽しいことだけやって後は、自分が最強になりたい!!!って考えてた。
でも、自分一人での力なんて無理で、本当は家族の助けあったし、塾に通うお金だってそうだし、誰かと話していないと気が気でしょうがなくて精神をすり減らしていた
だから、一人の怖さを知っているし、それ以来一人では絶対に何でもできるとは思わないし、一人だけだと視野が狭くなって物事を正しく捉えられないし永久にそこから逃れられないし、誰かといた方が知識の量も段違いで精神面でも助けになることを知った
一人というものは、それぐらい恐ろしいものだ
それに、一人で何でもやってくぞという時の自分は周りから見ていても非常に見苦しいものだったと思える。
しかし、自分には悲しいことになけなしのプライドというか、他人の意見を上手く取り入れようとしないという頭の硬いところがあった。
だから、こそいっそのこと、「自分のことを捨てる」つもりでいって、他者の意見を貰って、なんなら一体化するぐらいのつもりで、そしてなんなら他者を優先するぐらいのつもりでいこう、と思った 一人で生きていた頃には「絶対に誰にも騙されまい!!!」という強い意志があったが、もう騙されてもいいやぐらいの気持ちで自分を捨てようと思った
そしたら、他の人の意見も捉えられるようになって他の人からも雑な扱いを受けることは少なくなった。それどころか、俺のことをおもしろい、と言ってくれたり俺のことを自分よりも友達を優先できるやつって言ってくれるようになった。
正直言って、嬉しかった😊
そして、俺のことをよく評価してくれる人は、みんな性格が良いことが多かった、というか一切俺のこと評価してくれねえんだ!!!!という人、そいつらは、共通してあることにはいくつかのパターンがある。
・こいつといると恥ずかしい、一緒に思われたくない
・自分がない、頼りにならなそう
・一緒にいるメリットなし
・あまり、周りが見えてなさそうで嫌だ
・空回りしている、頑張ってはいるが、、、
などである。中でも、一番多いのが一番上のやつだ
俺のことを見た目で評価したり、一緒に話してなくても勝手に評価しちゃうんだと思う、そういう人は
まあ、こっちからしたらそういう偏見チックな人で、性格悪い人が自動的にいなくなってくれるのはありがたいのではあるが。
だから、こそ俺は自分を捨てても自動的に周りいい人たちばっかりだから騙されていないんだと思う、現時点では
俺自身が一種のフィルターになっているようなものだ。いわば、一種の負荷試験だ。
己を、理解していることは、自分を評価してきた人たちがどう評価してきたかで、その人の価値観だとか、大事にしてきているもの、人への興味度合い、偏見がどれぐらいあるのか、人をどう捉えられるのか、
自分をぶつけることで、その自分を理解しているっていうことは、その相手の反応を見ることで一種の負荷試験になっているのではないか、ということだ。
ただし、テキトーに話している人のことは分からないし、その人の本性が分かったり、どういう人かが完全に分かるのではなく、ある程度の価値観と何を大切にしているのかぐらいしか分からないような気がする
一部を分かったからといって、全部を知った気になってはならないということだ。
あくまでも、できるのはその自分の見抜いた相手の価値観を引き出して尊重し、自分もそれについて話し、お互いの理解を深めることだ。それで、仲良くすればハッピー!!お友達だ😆
改めて、俺とはなんなんだ、というと
俺自身が常に他人のことを考えているから他者に対してどう思っているかが、こそが俺についての要素なのではないか
もしかしたら、俺自身はほんとうの俺自身はただのチキンで、臆病者かもしれないし実はめっちゃ悪でイカついメンタルがマッチョなのかもしれないし、普通に周りの人が言ってくれる通り、良い人でお人よしなのかもしれないし、そこらへんの性格ちょい悪な人なのかもしれないし、そこはわからん。
例えば、できることと出来ないことで言えば俺のことをもうちょっと簡単に評価できる。
人付き合いそんなに得意かっつったらそこまでではないし、めっちゃインドアかといったら寂しがり屋だし、何か言われるとすぐに怒るし、そんなにメンタル強くないし、感動したら映画には泣くし、悪巧みをすることもある。めっちゃ手が器用かっつったら不器用ではないよねぐらいの気持ちで、勉強得意かっつったら長期記憶はいいんで、得意。人の話を聞ける方ではないし、それでも最近人狼ゲームで鍛えている。。物事の筋道をつなげて、流れを作るのは得意だし、人のおかしいところとか、矛盾しているところを突くのは好きだしおもしろいし上手くなってきた 我慢するのは苦手だし、プレッシャーにはそんなに強くない 体力はそこまではないかもしれん すげぇー死ぬほど何かに意欲があるわけでもない どんちゃんするのが、好きで自分のことしか考えてないような人のことは嫌いだ
だが、俺のことを俺自身が評価する時には他者の意見は必ず必要だと思っている。もちろん、ちゃんと俺と話し合った人からの意見である👦
自分のことを捉えた自分というのは必ずしも客観的ではないのが一つと、
俺自身が他者について考え続けているから、その他者が俺に何を言ってくるかで俺を測れるのと、
俺が他者に対して自分の切り口で推し進めて言った時に、「俺に対しての切り口がこうだから相手は◯◯な価値観を持っているんだ」というのが、「相手に対しての切り口がこうだから俺は◯◯な価値観を実は持っているんだ」と逆のことをすることもできるからである。なんなら、相手からその「切り口」の内容についてフィードバックを受け取ることも可能。
そこで、自己理解が深まればさらに、相手の切り口を広げて言って、さらに相手からのフィードバックを受け取るという正の循環も生まれる。
したがって、自己理解が深まってることこそが他者の理解も深まると言える。
しかも、他者を理解しようとすることこそが自己理解も進むともまた逆もいえる。
ただし、これをするのには俺のような「自分を捨てるぐらい」と言う考えの方がいいのか、それとも「自分を信じる、自分の価値観を信じる」と言う風に自分は基本絶対軸としてから相手に精査や、自己理解を進めた方が良いのか、どちらが良いのかは難しいところ。
少なくとも、俺は自分が絶対!!!とすると、また昔のことになりそうであまりそれを推し進められないでいるのである。