好きとか嫌いとか
わたしはあなたのことが好きなのか、嫌いなのか。どちらでもないような、どちらでもあるような。たしかにわたしはあなたのことが気になっていたから、こういうことになったのだし、恋人になってほしいとお願いした。
あなたはやっぱりそうなるよね、とたいそう失礼なことを言っていた。腹も立つし、いい加減にしてくれよと思うこともたくさんあるのだけれど、じゃあもう知らない、別れてしまえというのでもない。
チョコレートを5個差し出して、これで何年お供してくれますかと聞いたら、1個につき3年、いや最後まで一緒にいるには8年かな…と返してくれたこともあったけれど、じゃあ万事うまくいっているんだねと周りに言われるのも、違うのである。
こういうとき、いったい幸せとはなんだろうかと思う。自分と同じように考え、行動し、いつも気を遣ってくれる人といれば幸せになれるのだろうか。
どんな人と一緒になったら幸せになるのかと人は問うけれど、刹那的でない幸せを考えると、結局何もわからないような、お手軽な幸せ論なんてすべてぶち壊してしまいたいような、こうと決めてしまえないなにかがそこにあるような。言葉にした瞬間にすべてがズレていくような。
わたしはあなたのすることによく一喜一憂する。なんだか甘いようなことを言ってくれると、わたしのことが好きなのねと思って嬉しい。わたしの話なんて全然聞かずに自分のしたいことばかりする姿を見ると、わたしのことなんてどうでもいいのねと思って腹が立つ。
やっぱり、どっちかであることなんてない。わたしですら、わたしがあなたのことを「好きか嫌いか」で語れないのに、あなたがどっちかであるなんて語りえない。でも気を抜くと、わたしではないあなたは、わたしのことを好きか嫌いかの2択を生きているように勘違いしてしまう。好きなの?嫌いなの?はっきりして、と迫りそうになる。
でも、それは無理な話なのだ。だから好きと嫌いの向こう側の、いろいろあるけどなんだか一緒にいることができるということもあるのだと思う。なんだかずっと一緒にいたねと最後に思えたらそれでいいのかもしれない。それが実は愛なのかもしれない。
あいまいを許さない、語りえないものは0になる世界は、生きていて苦しい。あいまいすぎて、すべてが語れない世界もきっと苦しい。そのあいだをたゆたうように、時にははっきりさせたいような、また時にはあいまいにしたいような、そんな中を泳いで生きていくことはできないのだろうか。
なんの不純物のない殺菌処理された無菌室にある水も、ヘドロまみれで身動きがとれない水も、わたしという魚には苦しいものだ。わたし以外の魚のことは知らないが、わたしにはそれは苦しいから、誰かにそこで泳げとは言いたくない。
あなたはわたしではないから、よくわからない。わからないけれど、あなた以外の人よりは、わたしはあなたを知っていきたいと思った。だから腹が立ってもうれしくても、ふたりの関係がそんなふうに続いていけばいいなと思った。それだけのこと。でもそれだけのことが大きなことでもある。
わたしは自分が誰に対してそうなるかを選んでいるようで、実は選んでいない。そう思ったという以外のことはわからない。ひとつひとつ、つぶさに見れば、因果関係があるのかもしれないけれど、大きな流れのなかで、あなたが現れて、あなたを知りたいと思うわたしになっていて、あなたもわたしを知りたいと思っていた。
こうしたらその人は自分が好きである、こんなことを言ってくれたら、その人はあなたを幸せにしてくれる人である、そんな言葉をよく目にする。その言葉は甘い誘惑であるが、ほんとうの愛情はその先のもっとむこうの、人生かけても見えるかどうかわからないようなところに、しかしわたしの中にもとからあるように、とても素朴なものとして存在しているのかもしれない。
いま言えるのは、自分に優しい言葉をくれたり、一途に好きだと言ったりすることは、ほんとうではなくまた永遠ではないということである。優しい言葉や態度をとってくれることはうれしいことだ。好きだよと言われるのもうれしいことだ。
でもどうしてだろう、ずっと好きでいることって幸せなんだろうか。毎日毎日好きだと思わなければいけないのだろうか。それは逆に、そうじゃない自分や相手を許せなくなっていくことでもあるような気がする。いつも好きじゃない。大嫌いな日もある。あなたにもわたしにも。でも大きな流れでみたら一緒にいてしまう人。
相手はわたしと同じように考えたり、行動したりしないから、わかっていたりもしないから、わたしが分かってもらえるように努められて、あなたがいることが当たり前にならなくなる。いつもおかしなあなたがいて、わたしをイライラさせたり、ワクワクさせたり、時に絶望させたり、舞い上がらせたりするでしょう。それでいい。
そう思うこともたゆたうものだから、いまはそれでいい。明日には違っていてもいい。たゆたうけれど、わたしという存在は何かしらの形であるわけだから、この存在を足掛かりにいつも考え始めよう。