統計学の母

フローレンス・ナイチンゲール
ナイチンゲールの伝記を書いた。
原稿用紙20枚弱だと「あらすじ」みたい、と評された。
「白衣の天使」像が壊された、と評された。

しかし!「統計学の母」という二つ名を持つヴィクトリア朝を生きた女性を書きたかった。
クリミア後方の負傷兵達の野戦病院から分かる戦争のこと、傷病兵のことを報告すること。
報告をゴールとせずにそこからできることを提示する。関係各所、世論に訴えるチカラを統計学がもっていること。
そして、実践して働き続けたことが偉大だと思う。
2年弱看護師として働いたから「白衣の天使」なのか?働いたことから学び、発信し続けたから「統計学の母」なのか?

どちらも偉大な功績である。

コウモリグラフで何を伝えるのか
戦場での様子を数値や表だけでなく視覚に訴えるグラフに表した。グラフに表すことで計算に疎い人にも感情に直接訴えた。
1年間の数値の動きを一目で表す。
生徒達に「統計学の母」のレポートを書いてきなさい。と宿題を出す。すると、ほとんどの生徒がコウモリグラフか鶏頭図を描く。単独で描く。
ナイチンゲールは「青年労働者」の多い街のデータを横に並べて「ほら、よくみてごらん」
と問題点を提示した。

一つの事象を述べて「こうなんですよ〜」
と報告するだけでは足りないと思ったナイチンゲールは「この問題点に気づいてほしい」ということから他のデータを並べて比べてもらうことにした。都市部や農村部のグラフも作っただろう。しかし、訴える力が最大の「青年労働者」の街を選んだ。
これが、「訴えるチカラ」だ。
事業を任されたから「やりましたよ報告」のための報告。頑張ったから「認めてね、よく頑張りましたの報酬ください報告」の体裁のための報告。

そうではないんです。「だからどうする?」
「どうなってるんだ?」「何ができる?」と人を動かすチカラが彼女のグラフにはあったのです。

「こんなひとでした」「こんな業績がありました」「こんなのを作りました」では、寂しいレポートですね。ヒストグラムをポツンと1つ描くだけで良さを表しきれなくて残念です。

棒グラフは、棒と棒を比べます。棒の位置を入れ替えてもOKです、
ヒストグラムは、グラフとグラフを比べます。ヒストグラムに位置を変えてもいいですが、ヒストグラムの中の棒の位置は変えてはいけません。

グラフが描けること、階級の幅を変えることができても使えていないですね。

わかるとできるは違う

しる、わかる、できる、使う、表現する


これらは段階なのか独立なのか?

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