【短編】いもうと・いん・ざ・といれっと
「なあ……もうよそう、こんなこと。こんな戦いは、不毛だ」
僕は扉に背をもたれかかりながら、その奥にこもっているはずの妹に語りかける。もちろん、返事はない。この数時間繰り返してきたことだから、やっぱりか、という思いになる。
ため息をつき、僕はまた下腹に力を込めて痛みに耐えることに集中する。じくじくと波のように押し寄せる痛み。原因はわかっている。便意だ。
事の始まりはおおよそ九十三分前にさかのぼる。第一志望の高校に落ち、両親に心ない言葉を浴びせられ、おまけに彼氏に振られた妹は、泣きじゃくりながら僕の部屋にやってきた。機関銃のように世の無常を語り、それが一時間を超えたあたりで、僕は言った。
「お前の気持ちはよくわかった。……それよりもちょっとおなか痛いからトイレ行ってきてもいい?」
今思えば失言だった。妹は奇声を発しながら僕にボディブローをくれると、そのまま家に一個しかないトイレに立てこもった。ノックにも怒声にも返事はなく、反応といえばせいぜいが泣きわめく声か、世界を呪うようなつぶやきくらいだった。
あるいはそこで扉を破壊するだけの思い切りがあれば今の状況は生まれていなかったのかもしれない。けれど、既に機は逸した。今の便意から考えると、扉を蹴った段階で、僕の肛門は限界を迎える。
「なあ……悪かったって。ひどいこと言ってごめん。でも、僕の気持ちも考えてほしいんだ。お前と話してる時からもうしんどくて、今なんてこうして喋ってるだけで廊下をうんこまみれにしてもいいかなって悩むくらいなんだ。お前、トイレから出たらうんこにまみれた家族が失神してるとこ想像してみ? かなり悲惨だよ?」
「うるさい! 妹のことも心配できないクソ兄ちゃんなんて、うんちにまみれて死ね!」
ひどい言い草である。思わず怒鳴り返しそうになるが、再び便意の波が襲ってきたため、脂汗を流しつつ口ごもる。
他の家にトイレを借りる、という手も思い付きはしたが、残念ながら外は猛吹雪である。こんな天気の中外出しようものなら、翌朝僕は脱糞しつつ凍死体として発見されることだろう。両親はといえば、妹がトイレにこもる少し前から仕事がどうとかで家を空けている。車に乗せてもらい近くのコンビニまで、という手段もとることができない。
つまり、僕がまともに今後を生きていくのならば、この扉を開けさせるほかないというわけだ。
「……どうせ、兄ちゃんもあたしのことなんかどうでもいいと思ってるんだ」
ふと、扉の奥から弱々しい声が聞こえてくる。
「あたし、みんなと違って頭悪いし……運動もだめだし、料理も掃除もできないし、彼氏にも振られるし。お父さんもお母さんも、本当はあたしなんかいない方がいいんだ。兄ちゃんも、あたしなんかよりトイレが大事なんだ……!」
最後の言葉は、この局面に限りとても正しい。
だが、それを言えばおしまいだ。僕は精いっぱいの強がりで笑顔を作る。
「そんなことないよ。今も昔も兄ちゃんはお前を何より大切に思ってるよ」
「嘘つかないでよ! じゃあなんでさっきはトイレトイレ言ってたの!」
「それは……お前に情けない姿を見せたくなかったから……」
「うそうそうそ! あああぁぁもおおおおぉぉぉおお! やだやだもう全部きらい! みんなみんな大っ嫌い! あたしもう一生ここで暮らす!」
悲壮な決意だった。本当に勘弁願いたい。
僕は半ば白く染まり始めた頭をフル回転させる。既に妹がトイレにこもり始めてから九十五分以上が経過している。どうすればいいのか。どうしたら妹は納得してくれるのか。襲い来る便意が突き刺すような痛みを与えてくる。考えるだけの、余裕はない。
もう、恥だとか言ってられる状況ではないのだ。
「……なあ、覚えてるか」
妹の反応はない。だが、聞いているはずだと信じ続ける。
「小さい頃ってさ、よくお前と喧嘩したよな。今考えれば些細なことだったけど、あの頃は本気で腹が立って、なんでこんなのが妹なんだって、よく思ってた。何をするにも邪魔だったし、喧嘩をすれば僕が怒られるし。何回も大喧嘩になって、お互いのおもちゃを壊しあったりしたよな」
語りながら、僕の脳裏には妹との思い出が浮かんでいく。八つ裂きにされたトレーディングカード。二階から墜落していったシルバニアファミリー。そして、最後には父さんから仲良く拳骨をくらい、公園裏の秘密基地で一緒に両親への恨み言を言い合って団結した日々。
「……でもさ、なんだかんだ、僕はお前が妹でよかったと思ってるんだ。喧嘩もするし、服のセンスは最悪だし、いくら教えても勉強はできないけど……それでも、僕にとって妹はお前だけだ。どんなことになったって、それだけは変わらないって思うんだ」
扉越しに、妹がこちらを見ているのを感じる。僕はぎゅっと拳を握り、言う。
「受験に失敗したからってなんだ。お前のことを評価できない学校なんてこっちから願い下げだ。お前を振る彼氏なんて目が節穴に違いない。こんなかわいい妹を振る奴なんて僕がぶん殴ってやる。――なあ、だからさ」
歯をかみしめ、立ち上がり、扉に正対して、言う。
「……そんな所に閉じこもるなよ。兄ちゃんはいつだって、お前の味方なんだから」
心の底から、口をついて出てきたような言葉だった。恥ずかしさは、とうの昔に消え失せていた。
しん、と静まり返る中、ゆっくりと錠前が回り、扉が開いた。
「……兄ちゃん」
扉から、目を潤ませた妹が顔をのぞかせる。その顔は涙と鼻水でひどいことになっている。けれど、大切な妹であることには変わりない。
僕は、笑顔を作る。妹は一度しゃくりあげると、勢いよく抱きついてきた。どん、と衝撃が全身に走る。はっ、と僕は息を飲む。抱きしめ返すべきか悩み、もうどちらでも同じかと気づき、そっと妹の背中に両腕を回す。
「ごめん、ごめんね、兄ちゃあん……! あたし、バカだったよ、兄ちゃんの気持ちなんて全然わかってなかったよ、兄妹なのに、ごめんねえ……! あたしも、あたしも兄ちゃんがそばにいてくれてよかった、よ、お……ん、あれ……」
感動の台詞が、おもむろに中断される。僕は全てを悟ったような気持ちでそっと妹の肩を押しやる。妹は怪訝そうな表情を浮かべ、その表情はすぐに驚愕に歪み、そしてはっと顔を手で覆う。
気付きから、叫びまではほとんど一瞬だった。
「うわあああああ兄ちゃんうんこもらしとるうう! きたなっ、くさっ! ありえない、マジきもい近寄らないで最悪クソにい死ねっ!」
妹は好き放題に罵声を浴びせると、そこらじゅうの物を投げつけ二階の自分の部屋へと去っていった。軽快な足音だった。きっと悩みなんて吹っ飛んだことだろう。
僕は、廊下中に散らばった謎の置物や雑誌を眺め、ほんのり盛り上がった自分のズボンを振り返るようにして確認する。深呼吸をするようにして、夢でも幻でもないことを理解する。
そして、大きくため息をついた。
「……まあ、下痢じゃなくてよかったな」
ついでに妹も元気になったことだし。そう結論付け、僕はこの惨事の後処理を始めた。
了