「確定事象対策室出向 霧島由紀」第5話
4…
「僕は主に学校とその周辺の、魔的な要素について警戒していた。この学校は、かつて土地神を祀るためにあった儀式場があった土地に建てられている。そんな場所は世界中どこにでもあるし、幸い、これまでは特段の問題を感じなかった。……これまでは、だが」
田中は保健室にやってくると、険しい表情でそんな説明を始めた。霧島はコーヒーを準備する手を止めて、田中を見る。彼女にはオカルトについての知識はない。だが、これが重要なことについての話であることくらいは容易に察しがついた。
「ここ数ヶ月の間で、この学校周辺に吹き溜まりができている。例えだが……要するに、魔力が集まりすぎている。今は僕が気がつくたびに散らしているし、それに伴う異常もないが、時間の問題だろう。そしてその中心にいるのは、白井絵空である可能性が高い」
霧島は表情を固くする。この数ヶ月のエソラの状況については定期的に報告を上げている。おかしな挙動は見られないし、語られる状況についても一般的範疇だった。田中を含む、ほかの調査員からの報告でもそうだったはずだ。人為的ミスによる見逃し。そんな言葉が浮かび、彼女は背中に冷や汗を感じた。
「白井絵空に異能が発言したとは考え難い。特徴的な波長が見られないからね。あるとすれば、悪魔憑き、呪物の取得、外なる神との接触、その辺りだろう。霧島先生の方ではそういった予兆は感じられなかった?」
「……わ、私には、わかりませんでした……」
向けられた言葉から感じる重さに、霧島は俯く。即座に記憶を辿るが、エソラからそういったおかしなエピソードを聞いたことはなかった。隠していた? そうかもしれない。ある程度の信頼関係を築いていたつもりだったが、それもうまく偽られていただけの可能性もある。あるいは彼女の話の運び方が問題で、うまく聞き出せなかったのか。失敗、という言葉が頭の中を占めていき、彼女は息苦しさを感じる。
田中はそんな霧島をじっと見つめると、大きく息を吐いた。
「責めているわけじゃないよ。そもそも、専門家の僕が先に気づくべき話だ。……とにかく、状況は悪いということだけわかってほしかった。君も心構えはしておいた方がいい。何かあればすぐに連絡をしてくれ」
田中が去ってから、椅子に深く腰掛け、霧島は天井を仰ぐようにして息を吐く。
田中の言葉が本当ならば、エソラにはなんらかの異常がある。だが、これまでの彼女にはそれを見抜けなかった。今でも思い返すエソラの笑顔、仕草には嘘がないように思う。
すべてが嘘だった。そうは思いたくない。あるいはエソラ自身、気づいていない可能性はないか。
時計を見る。午後七時。数日後に迫る学校祭の準備のため、午後九時まで学校に残ることが許されている。エソラもクラスの出し物のためにまだ残っているはずだ。
まだ頭の整理はついていない。でも、とりあえず会いに行こう。霧島は一度目を閉じると、席を立った。
学校内には、はしゃぐような声や、何か作業する音、学校祭前のひそやかな期待に満ちた雰囲気があった。
霧島には明るい青春の思い出がない。中高時代の友人と言える人はなく、今の生活の中でも、親しいと言える人はいない。だから、こうした楽しげな校内を歩く経験もなかった。すれ違う生徒達が、彼女を見て楽しそうに挨拶をしてくる。それを見て、なんだか嬉しいような、悲しいような気持ちになる。
霧島の両親は彼女が中学の頃に離婚している。母親がカルト宗教に入信し、家庭をめちゃめちゃにしたからだ。離婚する際、彼女は父親についていった。どちらがいいか父親に尋ねられた時、宗教に狂う母親の目が気味悪く、強い感情を以て父親についていくことを選んだのだ。
その後、経緯は不明だが、霧島の母親は自殺した。それを知った時、彼女は全身の血の気が引き、自身の選択が決定的に間違っていたのではないかと思った。もう二度と会えなくなった母親、その優しかった頃の顔を思い出し、自分が母親についていけばもう少し良い結果にできたのではないかと思ってしまった。
きっとそれからだ。何かを選ぶこと、その選択が決定的な変化を及ぼすことを恐れるようになったのは。だから彼女は選択から逃げ、可能な限り答えを保留し、指示・命令に従うことを自身に義務付けて生きてきた。
エソラはどうだろう。孤立しがちで、家族関係も良好でないエソラに、霧島は自身を重ね、判断が甘くなってはいなかったか。
わからない。彼女自身にはそのつもりはなかった。田中から尋ねられたときも、本当に前兆となる異常はないと考えていた。
だから、確かめに行かなければならない。
「あれ、先生どうしたの?」
そんな時に、エソラは空き教室の一室から現れた。
霧島は少し動揺する。エソラのクラスに着くにはまだ距離がある。こんなところで遭遇するとは思っていなかった。
驚きを押し込めようとする。けれどこの状況は驚くほうが自然だと考え直し、瞬きをする。
「エソラさんこそ。ここは空き教室です。何か用があったのですか?」
「あー、うん。ちょっとね。秘密の相談」
エソラはなにかごまかすように視線を泳がせてそんな事を言う。なんだそれは、と思ったところで、エソラの後ろからもう一人の女子生徒が出てくる。霧島に気づくと会釈をし、エソラに「約束だよ、よろしくね」と告げて去っていく。その顔は見覚えがある。たしか、エソラを疎む女子グループの一人ではなかったか。連続して浮かぶ疑問に、何から聞けばいいのかわからなくなる。
女子生徒が去っていくのを見送ると、エソラは急に周りをきょろきょろと見回し、誰もいないことを確認すると霧島の腕をつかんで勢いよく教室の中に引き込んだ。思わず警察で学んだ技で対応しそうになるが、すんでのところで思いとどまる。
薄暗い教室の中、体を正面から近づけにんまりと笑むエソラの頬は興奮のせいなのか、薄く桜色に上気している。霧島を見上げる瞳には怪しげな光。どういう感情だろう、と考える。その答えが出る前に、エソラは囁くように言った。
「ねえ……先生は、恋をしたことがある?」
「え……」
唐突な質問に、彼女の頭は疑問符で埋め尽くされる。
どういう意図の質問か。わからない。エソラは誰かに恋をした? それがなんらかの異常につながっている?
霧島は恋をしたことがない。好意を寄せてくる相手もいなかったし、興味を持てる相手もいなかった。それを見透かしてマウンティングをされているのか。あるいはエソラには恋する悪魔かなにかがついていて、霧島を手籠めにしようとしている?
様々な可能性を検討する。情報が足りず、答えは出ない。どう答えるのが良いのか。エソラと霧島はいま、薄暗い教室の中で向かい合っている。霧島は白衣を羽織り、鞄の中には拳銃がある。まさか、この場面が巫女の言う未来視の災厄の岐路だとでもいうのか。
どうするべきか。
その答えを出す前に、エソラは少し驚いたような顔をした後、胸のあたりを両手で押さえるようにして、照れ笑いを浮かべて霧島から離れた。
「……あー、あたしは恋したことないの! でも、とうとう恋愛相談受けちゃった! ねえねえ先生、恋してると相手のことをずっと考えちゃって、息をするのも苦しくて、いっそこんな気持ち消えちゃばいいと思う――なんてことを言うけど、本当にそうなの?」
「あー、そういう話ですか……」
霧島は脱力し、思わず息を吐いた。エソラが首を傾げているので、安心させるように笑みを見せる。
「恋とはそういうものだとは聞きます。エソラさんは恋愛相談を受けたんですか?」
「あっ……えーと、ごめんなさい、秘密でした」
あははと頭をかくエソラに合わせて霧島も笑う。先程は急に変なことを言い始めたので驚いたが、話を聞けばそう大したことではない。少なくとも、反応からはやはりおかしなところは見受けられない。恋愛相談なんて、女子高生の専売特許のようなものじゃないか、と霧島は思う。
「先生はモテるもんね。学生時代から今までいったい何人の男を泣かせてきたのやら……」
「何を言っているんですか。私なんていつも遠巻きの仲間外れにされていますよ。目付きが悪いんですかね。エソラさんこそアイドルみたいに可愛いから、みんなの人気者じゃないですか?」
「えー、嫌味だなあ先生。……え、本気で言ってる? 本当に?」
エソラが目を見開いて迫ってくるので、思わず霧島はたじろいでしまう。どういう反応なのかわからず困惑する。
ひとしきり霧島の顔をじっと観察すると、エソラは腕を組んでうなり始める。そして力強く頷くと、小悪魔のような笑みを見せた。
「うん、今度一緒にお買い物行こ! 学祭が終わった後……夏休みとかでもいいし! 先生が魅力的だってこと、教えてあげる!」
「ええ……?」
困惑する霧島の両手を握って「約束だよ!」と言うと、エソラは走り出してしまう。その表情は楽しげで、やはりおかしなところなんて見つけられない。
去っていくそのうなじに銀色のチェーンを見つけて、そういえばアクセサリーの類は禁止だったっけ、なんてことを思い、霧島もまたブラウスの中にしまい込んだペンダントのチェーンを指で弄ぶ。
学校の規則以前に、霧島が身に着けているこれは法律違反である。そんな教師が注意をしても説得力がないな、なんてことを思った。
学校祭当日の朝、自室で出勤準備をしていたら、霧島の携帯端末から着信音が流れた。
発信者を確認する。機関の番号だ。眉をひそめ、端末の操作をして電話に出る。
「もしもし、霧島さん。お元気ですか」
その声は、子供っぽい女性のものだった。
すぐに、それが機関の巫女であるとわかる。
「毎回データでの報告、ありがとうございます。今日は一つ、お伝えしたいことがあって電話をしました。メモを取る必要はありませんし、時間も取らせません。返事もいりません。ただ、聞いていてください」
その不穏な物言いに、霧島は動きを止める。尊の会話は、最初に出会って以降、初めてだ。重要人物なのだから当然なのだと思っていた。それが、こうして電話で、一方的に話すというのはどういうことか。
災厄。そんな言葉が頭を過る。
「再度、私の能力が未来を知らせました。これは異例の事態です。見た場面は全く同じ。過去に、同じ場面を繰り返し予知した事例はほとんどありません。これが示すのは、発生する可能性のある災厄規模が巨大であるということと、その未来は間もなく訪れるということです」
告げられた言葉に思考が凍る。
巫女は、一呼吸置いた後、言う。
「――選択の時です、霧島さん。あなたにかかっています。くれぐれも、よろしくお願いします」
そう告げると、電話は切れた。
「……なんで、私なの」
電話が切れてからしばらくして。
今更ながらに顔を歪め、彼女はそうつぶやいた。
華吹高校の学校祭は、そう規模が大きいものではないが、広い敷地内に出店や催し物も並ぶため、付近の学校の生徒や住民も訪れ毎年盛況であるらしい。
入口から飾り付けがされており、そこらじゅうで忙しそうに人が動き回っている。そのなか、霧島に気づいた男子生徒の一人が駆け寄ってくる。
「先生も学祭回るの? うちの店たこ焼き出してるからさー、時間あったら来てよ!」
「……そうですね。基本的に保健室にいますが、時間があるときには回ろうと思います。その時は寄らせてもらいますね」
「え、まじ! やったー! クラスのみんなにも言っておくから、絶対だよ!」
そんなことを言って、はしゃぎながらどこかへと去っていく。そのやり取りを聞いていたほかの生徒からも同じように誘われる。キリがないな、と思い、どうにか無理やり話を切り上げて、職員室で鍵を受け取り、保健室に向かう。
この半年、保険医としてもまじめに活動していたからか、学校内での知名度や親しみも向上したようだった。これで本業が保険医であれば良かったのだろうが、霧島は警察官だ。それも、今は世界の命運を担っている。
保健室に到着し、周りに気配がないことを確認すると、鞄の中から田中から受け取った装備品を取り出し、確認する。拳銃に巻いていた包帯も、あらかじめ外しておく。
田中から警告は受けた。巫女から最後通告も受けた。これからはいつ、異常事態が発生するとも限らない。そう考え、それぞれを取り出しやすい配置にしておく。
これから毎日こうなのだろうか、と思うと、エソラとのんびり話をしていた日々が懐かしく思えた。
学校祭はつつがなく進行し、外からはにぎやかな喧騒が聞こえてきていた。幸い、怪我や急病もなく、保険医としての仕事はなかった。
時間を見計らって、学校祭を見て回る。朝に約束をしたクラスの出店も周り、腹ごしらえとともに、異常の有無を確認していく。特段トラブルもなく進行しているようだった。
エソラのクラスも見に行ったが、タイミング悪く、彼女の当番時間帯ではなかったらしい。先程までは売り子をしていたらしい。可愛らしく客引きをするエソラの姿を想像して、悪質な客引きだな、なんてことを思い、霧島は一人ほくそ笑む。彼女の可愛らしさであれば、付近の高校の生徒くらいは簡単に引き込めそうに思った。
そうするうちに、学校祭の一日目は終わった。夕方、少し薄暗くなり始める時間帯。明日も学校祭は行われるため、校庭で出店をやっていたクラスは、部外者に盗まれないように器具を校舎の中へと運んでいく。
複数の教師が声掛けをして、後片付けを手伝っている。霧島も手伝おうかと思ったが、彼女は保険医である、何かあったときのために控えていてほしいと言われてしまった。
せめて片付け忘れがないかだけでもチェックしておこうと思い、鞄片手に出店の間を回っていく。あわせて、なにかおかしなことがあれば対応できるようにと思い。
――ビーッ、ビーッと、けたたましいアラームのような音が鳴った。
「え……?」
次いで、鞄の中から何かが破裂するような音が聞こえる。なんだろう、とぼんやり思う。ブザーの音はごくごく近くから聞こえる。そう、鞄の取っ手につけた防犯ブザーから。断続的に鳴っていた防犯ブザーは、そのうちに音が連続し、弾けるようにして壊れた。
血の気が引く。すぐさま鞄を開く。鞄の中は入れた覚えもないゴミで汚れていた。違う。これはゴミではなく――破裂した藁人形。
呪術的攻撃の身代わり。そんな言葉を思い出す。魔的なものを感知したら吹鳴する。そんな言葉も思い出す。
それでは――今起こっている事態は?
ガシャン、とガラスの割れる音が頭上から響く。見上げた先、三階の窓から何かが窓を割って落ちていく。人間に見える。大柄な体格。あれは、まさか。
三階から落下した人影は地面でバウンドしてそのまま倒れ込んだ。血まみれの姿。霧島はその人影に向かって走り出す。近づけば、それはまさしく田中の姿だった。全身に細かな切り傷。腕と足は歪に折れ曲がっている。まだ息はあった。応急処置。霧島は覚束ない指先で鞄の中から包帯を取り出そうとし。
その手を、折れていない方の手で田中がつかんだ。
「……白井、絵空、だ」
彼女は返事ができない。思考も、感情もぐちゃぐちゃになっている。視界が赤い。――いや、空が赤く染まっている。夕焼けではない。毒々しい光が雲の上からこの一帯を照らそうとしている。
「邪神だ、失敗、した。儀式の核、今すぐ行け、間に合う。早くしろ、僕はいい、いいから行け世界が終わるぞ!」
怒鳴り声とともに体を押し出される。緊張なのか、呼吸が苦しい。エソラ? 邪神? 霧島には意味がわからない。
田中は三階の、校庭に面した窓から落ちてきた。校舎の地図を思い描く。あそこは……そう、昨日、霧島がエソラと話した空き教室だ。
あそこにエソラがいる。なら、行かないといけない。
霧島はそのために呼ばれてきたのだ。
田中に背を向け走り出す。玄関まではそう大した距離ではない。階段も走ればすぐだ。ヒールを履いてきたことを後悔する。こんな靴では全力で走れない。
玄関前には、男性教師――たしか山本先生だ――が一人ぼんやり立っていた。避けていこうと足を踏み出した瞬間、彼らが急に霧島を見た。無視して行こうとして、悪寒にヒールで急ブレーキをかける。
「ああああああああおおおおおおおおお!!」
意味不明な雄叫び。突如走り出した男は、涎を垂らしながら霧島に飛びかかった。
【幕間4】
「……今までごめん、あたし、白井さんのこと勘違いしてた」
空き教室にわたしを連れて行くと、三島さんはそんなことを言い出した。
わたしは、ぽかんと口を開けてしまう。どういう意味なのかな、と考える。謝られた。何に対して? 勘違いというのはどういう意味で言っているのだろう。
三島さんはそのままバツが悪そうに顔を背けると、バッグの中から何かを取り出した。
それは、わたしがなくした――三島さんたちが奪った、わたしの小物入れだった。
「男に媚びて、他の子の彼氏に手を出したりする嫌な奴って思ってたけど……なんか違うのかなって。勝手だけどさ。謝りたかったんだ、ごめん」
おずおずと差し出された小物入れを、よくわからないけど受け取る。中身を確認するけどなくなっているものはない。謝って、返してくれた。それはどういう意味だろう。
仲直り。友達がする、そんな言葉が浮かんで、なんだか嬉しくなる。
「いいよー、別に。気にしてないよ。三島さんも気にしないで、これからまた仲良くしてくれると嬉しいな」
それを聞いた三島さんの表情がぱっと明るくなる。良かった、これであっていたらしい。気にしていないというのは嘘だけど、仲良くしたいというのは本当だ。能天気な笑顔を作る。散々作った表情だから、上手にできていると思う。
仲直り。その言葉に心が温かくなる。
話を切り上げようとすると、三島さんは、わたしの服の端をつかんだ。首を傾げると、三島さんは言う。
「……それでね、少し相談したいことがあって」
三島さんの頬は、可愛らしく桜色に染まっている。
なんとなく、これは恋バナなんじゃないかと思って、胸がどきどきするのを感じた。
三島さんの相談は、やはり恋愛の話だった。
片思いをしている相手がいる。それは隣のクラスの男子生徒だ。野球部でも有名な人。鈴木くんだった。
「この間、白井さんが鈴木くんと話してるのを見たの。……知り合いなんでしょ?」
要するに、わたしが鈴木くんと知り合いだから、相談に乗って欲しいということらしかった。ちょうど、鈴木くんとはこの間話して、ツツの力で悩みを解決したばかりだ。恋愛についてわたしは詳しくないけれど、悩みを解決することはできる。ツツがいるから。
わたしの顔を見てどう思ったのか、三島さんはぎゅっと胸を両手で押さえるようにして言う。
「いつもいつも頭の中は鈴木くんのことばかり。考えているだけで胸が張り裂けそう……なんて思う。こんな気持ちになるなら恋なんてしなければよかったのにって……そんなベタベタなことばっか考えちゃう。白井さんもわかるでしょ?」
「うーん……わからなくもないかな……」
「でしょ!? 良かったあ、白井さんが協力してくれて……!」
いつの間にか相談が協力になっていた。でもやることは変わらないように思う。
恋する気持ちが辛い、という悩みだ。それを解決するのにはやっぱり、ツツの力を使うのが一番だろう。
頭の中でツツに解決できるか聞いてみる。
――できるけど、少し時間がほしいな。
すると、今までになかった答えが返ってきた。少し驚くけど、ツツが言うのだからそういうものなのだろう。恋心は青春の中で訪れる爆弾みたいなものだし、大変なんだろう。
「少し準備が必要だから……明日、学祭の一日目が終わったらまたここに来てもらっていい?」
「ありがとう、白井さん! 待ってるからね!」
ひとしきり話して教室を出ると、偶然霧島先生に会った。
先生は暗がりの中でも相変わらずの美女で、急に会ったからかびっくりしたような顔をしていた。
三島さんと別れた後、ふと、先生にも聞いてみようかなと思い、教室の中に引き込んで聞いてみる。
「ねえ……先生は、恋をしたことがある?」
間近から先生を見上げて聞いてみる。白い肌、長いまつ毛、切れ長の目。整った顔立ちに、すらっと長い手足、少し抜けたところのある先生はきっと恋愛強者に違いない。息がかかるくらいの距離にいると、ふんわりと先生の香りがして、すごく気分が良くなってしまう。
それを遮るように、頭の中に声が響く
――エソラ、その人から離れて。なにか変なものを持っているよ。
普段は全然話しかけてこないツツが発した警告に、わたしは思わず体を離して後退りしてしまう。
変なもの。どういう意味だろう。ぎゅっと服の上からツツを押さえて聞くけど答えは返ってこない。
先生が困ったような顔をしていたので、適当にごまかして話す。恋愛相談を受けたこと、わたしは恋がよくわからないこと。先生は相変わらずどこか抜けた感じで、自分が美人なことにも気づいていないみたいな感じだった。……本当にそうだとするととんでもないことだ。わたしが頑張らねば、という使命感が湧いてくる。
そのまま先生とお出かけする約束までして、先生と別れた。楽しい気分で顔がにやけてしまう。
人気のないところまで来て、わたしはツツにもう一度尋ねる。
「……さっきの、先生が変なものを持ってるって、なに」
しん、とした空気の中で、答えを待つ。
どれだけ待っても、ツツが返事をしてくれることはなかった。
翌日、学校祭の一日目。
朝からみんなで準備をしたり、お店の手伝いをしたりで大忙しだった。わたしたちのクラスは喫茶店で、お客さんもそれなりに入ってきていて、クラス対抗の人気投票でも上位を狙えそうな勢いだった。
お昼すぎに休憩で少し他のお店を回って戻ると、先生がうちのクラスに来ていた、と言われた。入れ違いだ。霧島先生好きを公表しているわたしがショックを受けているのを見て、クラスメイトたちが慰めてくれる。先生と会えなかったのは悲しいが、こういうやり取りは素直に嬉しい。これも前まではなかったなあ、と思うと、先生とツツに感謝したくなってくる。
時間が経つのは早く、すぐに一日目の時間は終わった。明日もそのまま喫茶店をやるので、調理器具などは洗ったらそのまま置いておく。外ので店の人たちは校舎の中に持ってこないといけないらしい。外で声掛けをしている人の中に、金色の髪をなびかせた先生の姿があった。忙しそうにしていたので、勝手に眺めてにんまりする。
この後は、自由解散になる。わたしは、昨日約束した、空き教室へと向かう。三島さんはもう向かっているみたいで、教室にはもういなかった。服の上からツツを握って、準備はもういいのかと尋ねる。
――大丈夫だよ。あの子の悩みをどうにかすればいいんでしょ?
そうだよ、と頭の中で返事をすると、ツツが手の中で震える。いつものやり取りは心強く、安心感があった。
空き教室には、三島さんがいた。入ってきたわたしに目を向けると、顔を上げて、なぜだか首を傾げる。
「えっ、と……鈴木くんはあとから来るの?」
「え?」
思いもよらないことを言われて、わたしはぽかんと口を開けてしまう。何を言っているのだろうと思う。そこで、三島さんが『協力』という言葉を使っていたことを思い出す。ああ、三島さんはわたしが、鈴木くんを呼び出して、告白が成功するようにしてあげるんだと思ったのか。
そんなことはわたしにはできない。ツツの力はそういうものじゃない。
ツツにできるのは、三島さんの悩みをどうにかすることだけだ。
「……三島さんは、わたしの噂を聞いて、わたしに相談したんだよね?」
「そうだけど……なに、どういう意味?」
三島さんは細く整った眉を吊り上げてわたしを見る。その答えを聞いてわたしは安心する。それなら間違いはない。わたしは、教室の真ん中に立つ三島さんのところに近づいていく。三島さんは、なんでかわからないけど、不安そうな顔をしていた。そんな顔しないでいいのに。
三島さんは恋をして、死んでしまいそうなくらいに悩んで、苦しんでいる。わたしなんかに相談してしまうくらいに。でも、わたしなんかじゃその悩みは解決できない。
だから、ここからはツツの出番だ。
――この子の悩みをどうにかすればいいんだね?
頭の中に響く声に、わたしは頷く。
「大丈夫だよ、三島さん。わたしが力になるから」
両手で、三島さんの手を握る。少し汗ばんでいて、でも滑らかな手。
触れた瞬間にツツの力が発動する。
――三島さんの中の、恋心を、ツツが奪った。
「……え?」
三島さんが、他のみんなと同じようにぼんやりとした顔をする。
ツツは、限定的な力を持つ神様だ。人の頭のなかにあるものを奪い取って、銀色の筒の中に押し込めてしまう。
わたしは先生みたいに綺麗で素敵ではない。でも、先生みたいに悩みを聞いて、ツツの力でその悩みの元になる気持ちを奪うことができる。
そうすることで、みんな苦しむことなく過ごすことができるし、わたしは綺麗で素敵な先生に近づくことができるのだ。
「なんで……えっ……え? 嘘、なにこれ、こんなの――」
三島さんはわたしが手を離すと、顔を歪めて、頭を両手で抱える。どうしたのだろう。悩みはこれで解決するはずなのに。他の人はそうだった。心配になって、三島さんに近づく。
ぱしっ、という音。視界がちかちかして、頬がびりびりと痛む。顔を叩かれたのだと気づいたのは、頬がじんわり熱を持ってきてからだった。
「ふざけんなよてめぇ! なにしたんだよ! なんで、どうやって……ずっと、ずっと好きだったんだ! 気持ち悪い、やっぱずっと変だと思ってたんだよ死ねこのクソ悪魔!」
突き飛ばされて、机に倒れ込んでしまう。
三島さんはそのまま教室を出ていってしまった。
わたしは訳がわからなくて、机に寄りかかったまま、ぼんやりと三島さんが出ていった扉の方を見る。
「……なんでだろ。悩んでるって言ってたからツツの力を借りたのに。仲直りって言ったから、頑張ったのに。なんでだろ……ねえ、なんでだろ、ツツ」
服の上からツツを握り込もうとする。でも、胸の上にその感触がない。おかしいなと思う。首にはまだチェーンがあって、ツツはそこにつながっているはずだ。
ぼんやりと考える。三島さんはなんで怒ったんだろう。悩みを解決したのに。頑張ったのに。友達になれて嬉しかったのに。
ぜんぶ、嘘だったんだろうか。
「――ああ、これはもう見逃せないなあ」
そんな声が聞こえた。
教室のもう一つの扉のところに、男の人が立っていた。田中先生だ、とわかる。でも、いつものにこにこ笑顔はなく、今にも人を殺しそうな目をしていた。
ポケットから鈍い輝きをしたナイフが取り出される。現実味のない光景に頭が働かない。田中先生は人殺しなんだろうか。わからない。
田中先生も嘘つき。みんな嘘つきだ。
「機関には悪いが、これ以上はあまりにまずい。顕現寸前じゃないか。未来視が絶対だろうが、ここで始末しない手はない――」
「ねえ、ツツ。お願いがあるの」
――いいよ、エソラ。君の願いを叶えよう。
「っ、まじかよクソっ」
田中先生がすごい速さでこっちに走ってくる。どうでもいい。わたしはツツに願いを伝えた。
嘘つきなんて……わたしと同じような嘘つきなんて、みんな消えちゃえばいいんだ。
目を閉じて、言う。
「誰も、嘘をつけない世界にして」
胸の中でツツが震える。そして、世界は変質した。
目を開けると、黒い何かが目の前を覆っていた。
なんだろう、と思ってよく見てみると、それはわたしの背中から生えているのだった。何かが叩く衝撃が背中に伝わる。なんだかムズムズするな、と思っていると、それは勢いよく動いて何かを吹き飛ばした。
視界が開ける。教室の後ろの方はもう、めちゃくちゃだった。窓ガラスも割れている。さっきまでいたはずの田中先生もいなくなっている。
背中から生えていたのは、よく見れば翼であるようだった。黒い翼。悪魔みたい、と思う。さっき三島さんに言われたことを思い出して、なんだか笑いたくなった。
外は夕焼けのものではない、赤い光が満ちていた。人のものとは思えないうなり声や怒鳴り声、何かが暴れまわるような音が聞こえてくる。
世界が変わった。なにか、とても良くない方向に。わたしは賢くないけれど、なにか大変なことをしてしまったのはわかった。
「ツツ」
ツツを呼ぶ。返事はない。わたしが願ったのは嘘をつけない世界だ。それなのに、これはなんだろう。背中からは羽が生えて、なんだか外は騒がしくて、外には気味の悪い光が満ちている。こんなこと望んでない。こんなの、まるで。
『君が望んだことだよ、エソラ』
声が響く。頭の中ではなく、確かな音で。声の出所はわからない。まるで、わたしから発せられているような、そんな気がした。
『君が望んだのは誰も嘘をつけない世界だ。だから、僕はこれまでと同じように奪った。みんなから【嘘をつくことのできる知性】を』
今いるヒトは狂った獣だけだよ、と胸の中でツツが震える。声は胸から響いている。既にツツはペンダントではなくなっていた。わたしの胸の中に、埋まり込んでいた。
ツツが震える。愚かなわたしを馬鹿にするみたいに、震える。
わたしは……。
ようやく、なにか致命的な間違いをしてしまったんだってことを、理解した。
『君の願いは叶えた。おかげで力は充分に戻った。だから、あとは君の願うように、世界をぜんぶ変えてしまおうね』
ツツが笑う。わたしは先生のことを思う。
世界はきっと終わる。ぜんぶ、わたしのせいで。
ただ、今となっては、先生を巻き込んでしまったことだけを悔やんでいた。