「確定事象対策室出向 霧島由紀」第3話
2…
私立華吹高等学校は。県内でも平均的な偏差値を誇るありふれた高校の一つである。
生徒数は600人程度で、市街地に構えられた学校の敷地内には校舎と体育館があり、少々大きめの校庭とグラウンドもある。野球部はそれなりに強いらしく、冬真っ盛りの1月のこの時期でも、元気に屋外で部活動に勤しんでいる。北海道の冬とは違い、ほとんど雪も降らないから当然か、と彼女は思う。
霧島由紀は、北海道警察所属の警察官である。が、今はこの高校に勤務する養護教諭――いわゆる、保健室の先生、ということになっていた。
三学期が始まるのに合わせて、彼女はこの高校に赴任した。前任の養護教諭が急遽精神を病んでしまい長期休養となったため、という名目であった。もちろんそのような事実はない。あの巫女が所属する機関が手を回したのだろうが、詳細はわからない。
放課後、霧島は誰もいない保健室で椅子に座りながら、紙の上でペンを弄ぶ。腰まで届く長い髪は金色に染まり、髪留めで首の後ろで一本にまとめられている。ブラウスの上には白衣を羽織り、真っ白な紙に向けて鋭く細められた目は、その整った容姿も相まって、話しかけるのを躊躇わせるような雰囲気を醸し出している。正しくは、何もすることがなくて手持ち無沙汰であるだけであるのだが。
今回の特命にあたって、一旦、彼女は元いた職場から政府の機関へ出向という形となった。名目上は内閣情報調査室の地方分室ということになっているらしい。業務の引き継ぎや身辺整理、今回の仕事に向けた準備など、諸々の都合を勘案して、三学期初めからの任務開始となった。その間に、巫女の未来視に合わせるため、髪を脱色した。髪を染めるのは初めてだったので、未だに鏡を見ると少し戸惑ってしまう。
教員たちはほとんどが事情を知らず、突然現れた謎の女性にどう対応していいか決めかねているようであり、どことなく距離を置かれていた。その点、生徒達の順応は早かった。保険医が誰だろうとあまり気にしていないのか、怪我をしたり熱を出したりサボりたかったりと、毎日のように代わる代わる生徒達はやってくる。中には新しく来た女の保険医をひと目見てやろうと、用もないのにやってくる男子生徒もいた。そういった者には丁重にお帰りいただいたが。
潜入任務、という意味では、不自然さはあるものの順調に馴染むことができていると言える。
問題は、潜入して一ヶ月近くが経つのに、未だに対象と接触できていないということだ。
「……保険医じゃない方がよかったんじゃないだろうか……」
養護教諭というのは、学校にいるほとんどの時間を保健室で過ごす。怪我や体調不良があれば対応しなければならないからだ。校内を巡回することや、会議などで部屋を空けることがあっても、それは短時間に留まる。生徒達と接する場は限られている。健康であれば保健室に用事はないのだ。
彼女は教員免許を持っていないため、授業を受け持つのは難しいと機関は考えたのかもしれない。しかし、もちろん彼女は養護教諭の資格も持っていない。今のところは大した問題もなくやれているが、いつかボロが出そうで恐ろしくもある。
巫女が見た未来の光景で霧島が白衣を着ていたため保険医が選ばれたのだろうが、これではどうやって対象と接触すればいいのかわからない。退勤後にそれとなく白井絵空の家の近所を歩いたりはするが、今のところ成果はない。保健室に来る生徒達と会話をすることで、それとなく学校の雰囲気や人間関係などは見えてはきているが……。
と、そこで扉をノックする音が聞こえてくる。
彼女が「どうぞ」と声を掛けると、体を屈めるようにして中年くらいの男が入ってきた。
「やあ、霧島先生。調子はどうだい」
そう言って手提げかばん片手に朗らかな笑顔を浮かべるのは、田中という教師だった。
大柄な体格に引き締まった体。少々手入れの行き届いていない中途半端な黒髪には白髪が混じり、無精髭も相まって、体の大きさとは反対にどこかうらぶれた印象を与える。
霧島は、窓から軽く周りを見やり、人の気配がないことを確認すると、椅子の一つを田中に勧める。
田中が腰掛けると、彼女は小首を傾げる。
「こちらはあまり。そちらで何か進展でもありましたか、田中先生」
「いやあ、相変わらずさ。今のところ予兆と言えるほどのものはないなあ」
そう言って困ったように田中は顎を撫でる。人好きのする温和な笑顔、だがその目は一切笑っていない。その目に見据えられ、霧島は思わずそらしそうになった目を、意識的に彼の顔に向ける。
田中は、機関の送り込んだエージェントである。
どのような来歴の人物であるかは、彼女も知らない。ただ、こうした異能の絡む事件のスペシャリストであり、これまでも数々の事件を陰で処理してきたのだという。どれほどの能力があるのかはわからないが、機関が送り込むほどなのだから、よほどの信頼を得ているのだろう。
田中は霧島よりも少し早くこの高校に潜入しており、彼女が赴任してすぐに挨拶に来た。その時に現在の学校の状況について『儀式場』やら『悪魔召喚』やらと、オカルト的な専門知識を交えた説明を受けたのだが、その多くが彼女にとってはよくわからないものだった。
要約すると、何かしらきな臭い雰囲気はあるが、それがなんであるかはわからないということらしいことはわかった。
彼女の理解が浅いものであることを察すると、田中は今のような笑顔を浮かべて言った。
「まあ、僕の手に負えそうな程度のモノであれば、こっちで適当に処理しておくからね」
その頼もしい宣言を聞いてからは、いざという時はこの人に頼ればなんとかなりそうだ、と彼女は考えている。オカルトについては門外漢なのだ。専門家がいるのならば全面的に任せてしまいたい。巫女の言葉を信じるなら、そういうわけにもいかないのだろうが。
霧島がインスタントのコーヒーを勧めると、田中は礼を言ってカップに口をつける。
「一応、怪しいところは大体見て回ったけどね。大昔の儀式痕はあったけど、原始呪術の域を出ない小規模なものだったし。異能者もこの学校にはいない。あとあるとすれば突然変異的に覚醒するパターンか、なにかに潜って力を溜めているパターンか、外からやってくるパターンか……」
視線を漂わせながら田中はぶつぶつとつぶやく。その辺りは余計なことを言わずに田中に任せてしまおうと思い、彼女は頷きを返す。
「そうなんですね。対象周辺とはもう接触できていますか?」
「それなりにね。僕はいま、二年生、三年生の国語を担当しているから。白井さんはまじめな方じゃないかなあ。授業をサボることもないし。ただ、愛想はいいけど本心は見えないタイプだから、友達付き合いはうまくいってないように見える」
白井絵空は2年2組の生徒であるが、部活、委員会には所属しておらず、特別仲のいい友人もいない。休みの日などはSNSで外食風景などの写真を投稿するが、それもほとんど単独で行っている。父母はともに長期出張中で、一人暮らしをしている。趣味嗜好も判然とせず、今ひとつ何を考えているのかがわからない。
要するに、今のところ事前情報の範囲を越える話はないということだ。
覚束ない進捗に、霧島は小さくため息をつく。
「それで、今日は他に何かありましたか? 世間話をしにきたというわけでもないでしょう」
「ああ、実は霧島先生にお土産を持ってきたんだ」
田中はカップを机に置くと、持ってきていた手提げ鞄を手元に引き寄せる。
鞄を広げて出てきたのは――小型の回転式拳銃。
「ちょっ」
「ん? ああ大丈夫、弾は装填してないよ。ほら、確認してみて」
気軽に言われ、弾倉を開いた状態で手渡される。霧島は学校という場にそぐわない凶器に顔をしかめながらもそれを受け取る。
拳銃には詳しくないが、彼女が交番勤務時代に使っていた回転式拳銃――エアウェイトに似ている気がする。見た限りは銃口も詰まっておらず、モデルガンではないように見える。彼女の手より少し長いくらいの大きさで装填数は五発。銃身が短いので携帯性は高いが、きちんと狙わないと十五メートル先の標的にきちんと当てるのも難しい代物だ。警察学校で何度も居残り訓練をさせられた記憶が蘇り、更に彼女はげんなりとする。
「銃刀法違反……というか、どうやって用意したんですかこれ」
「仮にも政府の秘密機関だからねえ、方法はいくらでもあるさ。ああ、引き金はいざという時まで引かないほうがいい。それ、見た目は普通の銃だけど、魔術的に相当いじられてるから、下手に触った場合の安全は保証できない」
「ええ……」
霧島は拳銃をそっと戻そうとするが、田中に「まだあるから持っててね」と言われ、仕方なく膝の上に置いておく。
次に出てきたのは弾丸だ。ペンダントトップに装着された金色の弾丸が一つ。後端部がネジ式で装着されている。アクセサリーにも見えるが、外してみると明らかに雷管が備えられている。職務質問を受けたら間違いなく逮捕される一式だ。
続けて、古びた藁人形、豪華な装飾の付いたロザリオ、達筆で描かれた御札が一枚、小学生が持っていそうな防犯ブザーと、少々よくわからない物が霧島の膝の上に広げられていく。彼女はそれらを落とさないようにスカートの端をつまんで支えつつ、田中を見上げる。
田中は相変わらずにこやかな笑みを浮かべていた。
「……あの、なんなんですかこれ」
「お土産だよ。機関からの支給品。どれもいわくつきの逸品だけど、効果は保証する。使い方を間違えると危ないけどね」
いわくつき、と言われて若干彼女は身じろぎする。よく見てみれば藁人形は赤い染みのようなものが見える気がするし、ロザリオなどは異様な迫力があり、これを争って殺し合いが起きたと言われても納得できるような輝きを放っている。防犯ブザーは……よくわからない。夜道を歩く時に便利かもしれない、と思った。
「返品は可能でしょうか……」
「それ、一つ用意するだけでも相当な予算を注ぎ込まれてるからやめたほうがいいんじゃないかなあ。それに、これから何が起こるかわからないから持っていたほうがいいと思うよ」
「……そうですか」
諦めて、霧島はそれらをしまい込むため自分の鞄を田中に取ってもらう。立ち上がるといわくつきの品々を落としてしまいそうだった。
田中はそれぞれについて、来歴をあえて省いて説明する。
藁人形は呪術的な被害の身代わりの効果を持つ。ただし、直接破壊されたりすると持ち主が死ぬ。
ロザリオは魔に属する者を惹きつける効果を持ち、いざという時に囮として使用できる。ただし、長期間肌に身に着けていると精神を乗っ取られる。
御札は強い力で押し付けると貼り付き、その場所を封じることができる。ただし、とても体力を消耗し、場合によっては昏倒する。
防犯ブザーは、魔的な存在を感知すると自動で吹鳴する便利グッズであるようだ。ただ、感度が低く、よほどの事態でなければ反応しない。
霧島は説明を聞いて、少しだけ巫女の所属する機関の評価を下げた。もう少し便利な物を用意してくれても良かったのではないか、と思う。
「扱いさえしっかりすれば、効果は上々だよ。素人が扱っても効果が見込めるものとなると限定されるしね」
「そういうものですか……」
専門家が言うのだからそうなのだろう、と納得することにした。防犯ブザーは鞄の取っ手につけて、他は鞄の隅にしまい込む。
「拳銃は、銃の形をした魔術の媒体だね。機関の装備部門が調達した逸品だよ。普通の弾丸を撃つことはできないが、空撃ちでも並の妖魔なら退けられるだろう」
さり気なく専門用語が飛び交ったが、彼女はとりあえずオカルト的にも効果がある銃なのだろうという理解に落とし込んだ。
「そして、これが今回用意された中でも一番貴重で退魔効果が高いものでね。聖女の血液を封入した銀の弾丸だ」
田中は最後に残った、ペンダントトップにはめ込まれた銃弾を手に取る。
霧島は、金色の弾丸を見つめて、首を傾げる。
「金色に見えますが」
「例えだよ……とにかく、これはすごい。君は聖女について知らないから反応が悪いけど、僕たちの業界の中では最高峰の装備と言っていい。下手な神くらいまでなら殺せる」
神、という言葉に彼女はぎょっとしてしまう。そもそも、神は殺していいものなのだろうか。認識の違いに困惑を隠しきれなかった。田中の目が剣呑な色を灯しているため、相当貴重なものなのだろうとはわかった。
ただ、神をも殺せるような装備を用意してくるとなると、機関が想定する事件はそうした超越的な規模である、ということも示している。
霧島は警察官として一通りの訓練を受けてきたが、刃物を持った相手を単独で制圧することすら正直なところ自信がない。それが神やら悪魔やらとなってくるともはや判定不能の域だ。
「可能なら僕もほしいくらいさ。ただ、単純な銃弾としての性能は低い。火薬量の関係で貫通力も低いし、有効射程も十メートルくらいだろう。普通の胴体とかだと貫通しないんじゃないかな。その代わり、当たれば効果は抜群だし、持っているだけでも退魔の効果がある。常に身に着けることをおすすめするよ」
とりあえず、銀の弾丸については田中の言うとおり首からかけて持っておくことにする。アクセサリーと言えばごまかせる気もするが、誰かに見られても面倒なので服の内側にしまい込む。
拳銃については見つかれば問答無用で逮捕されかねない。せめてもの抵抗として、手頃な包帯を戸棚から取り出し、まとめてぐるぐる巻きにして鞄の奥底に収めた。
「とりあえず、持ってきたのはそんなところかな。支給品については君の判断で使っていいと聞いている。どのみちそれを使うような場面があれば僕もいない可能性が高いしね……」
不穏な物言いに霧島は不安を覚えるが、いずれにせよ今すぐの話ではない。鞄を事務机の方にそっと押しやる。藁人形は物理的に破損すると彼女自身にダメージがいくらしいと聞いたので気をつけなければならない。家に帰ったらプラスチックケースでも用意しよう、と彼女は思う。
田中はカップに残ったコーヒーを飲み干すと、軽くなった鞄を片手に席を立つ。
「それじゃあそろそろお暇するよ。生徒達に若い子狙いのいやらしい中年だと思われても嫌だしね」
「私は若いってほどでもないですよ……」
心外である。彼女とて社会人となって既に十年近くが経過している。この学校に通う女子生徒であれば若い子というのもわかるが、三十路近くの成年女性を捕まえて若い子というのはいかがなものか。
そんなことを考えていると、ぱたぱたと廊下を走る足音が近づいてきた。ノックが三度。入ってきたのはこれまでに何度かやってきていたバスケ部の男子生徒だった。
「霧島せんせー、足くじいた奴いるんで氷ください……って、田中せんせーなにしてんの。不倫っすか? やらしいな〜」
「ばかやろう、失礼なこと言うな! そもそも俺は結婚してねえわ!」
急に始まったやり取りのエネルギッシュさに面食らいながらも、彼女は冷凍庫から氷を取り出しクーラーボックスに入れて男子生徒に手渡す。
成年女性が相手であっても、やらしい中年扱いはされるのだ。今後こうして話す時は周りに誤解を受けないよう気をつけよう、と彼女は思う。田中の評価が落ちるのは彼女にとっても不都合だからだ。
「せんせー、さよなら〜」
「はい、さようなら。気を付けて帰ってください」
部活動の時間も終わり、生徒達が下校していく。多少の残業がある日もあるが、基本的にはこれで彼女の保険医としての勤務時間は終わりだ。
職員室に保健室の鍵を返しに行く。校舎にはもう生徒は残っていない。職員室では弛緩した雰囲気で他の教師たちが雑談をしていた。入ってきた彼女に気づくと、それもぴたりと止まる。気にせず鍵を戻して礼をし、部屋を出る。
「霧島先生、学校には慣れましたか?」
扉を開けたところで、椅子にだらしなく座った男性教師から声をかけられる。山本という名前だったと記憶している。担当教科はなんだったか。覚えていないということは対象との関係は薄いのだろう、と判断する。
霧島は少し考えるように視線を宙に泳がせ口元に指をやり、柔らかな笑みを浮かべてみせた。
「皆さん親切にしてくださるので、今のところ不便はありません。お気遣い、ありがとうございます」
「あ、ああ……そうですか……」
たじろぐような山本に、彼女は想定と違う反応だなと思いつつ職員室を後にした。
もうすぐ三月であるが、午後七時にもなればすっかり真っ暗になってしまっている。ただ、もうマフラーを着けるほどの寒さではなくなっていた。腕にかけていたマフラーを、鞄に――物騒なものがたくさん入った鞄にしまい込む。今後はこの一式を持ち歩かなければならないのか、と思うと少し憂鬱だった。
この時間帯の白井絵空は、おそらく家でご飯を食べているはずだ。両親が家にいないため、ほとんどは弁当を買ったり、ゼリー飲料を飲んだりしている。とりあえず今日も家の辺りを見回ろうか。そう思った彼女の目の端、校庭の方に人影が立っているのが映った。
不審者だろうか。霧島は少しためらうが、そちらに足を進めながら考える。ただの不審者であれば確認できた段階で職員室に残っている教師に連絡すればいいだろう。だが、彼女がこうして派遣されてきたのはオカルトの絡む事態を想定してである。仮にそうした妖怪のようなものであればどうするべきか。
鞄の中のおどろおどろしい装備のことを考える。早速使う機会が来たのだろうか。それよりも田中を呼び出す方がいい気もする。いずれにせよ確認してからだろう。
近づいて、暗闇の中の輪郭が明らかになる。校庭の端、敷地を区切るフェンスそばの木の辺りに俯くようにして人が立っている。制服、スカートが見えるからセーラー服だ。黒い髪に、紺色のコート。背中にバッグもあるように見えるので、学校の生徒だろうと判断する。
「こんばんは。どうかしましたか。もう下校時刻を過ぎていますよ」
そして、顔が見分けられそうな距離に来たところで、声を掛けられた少女は霧島に顔を向けた。その顔に一瞬驚きそうになったが、必死で平静を保った。
そこに立っていたのは、白井絵空だった。
「え? あ、本当ですね」
携帯で時間を確認すると、白井絵空は驚いたような顔を見せた。黒髪の合間からは桃色のインナーカラーが覗いている。バッグに目をやるが、羽の飾りなどはない。だが、その特徴的な容姿は確実に調査対象の彼女だと確信できた。
暗さのせいで気付けなかったことを霧島は悔やむが、会ってしまったなら仕方がない。
何をしていたのかと思うが、周りに視線を巡らせるも何があるわけでもない。霧島が首を傾げると彼女は少し困った様子を見せた。どういう反応だろうと考え、一つ頷く。
「失礼しました。三学期から養護教諭としてこの学校に赴任してきました霧島といいます。怪しい者ではありません。あなたは、この学校の生徒でいいんですよね?」
「あっ、すみません、二年の白井です。霧島先生のことも知ってます……先生は有名というか、その」
「有名……?」
意外な言葉に霧島は眉をひそめる。少なくとも、これまで目立つ行動はしていないという自覚があった。誰かと間違えているのだろうかとも思うが、流石に名前も知られていてそれはないとは思う。
いずれにせよ、貴重な初回接触だ。今後の関係進展を円滑にするためにも、活用していくべきだろう。
「知られているのでしたら光栄です。何か困ったことでもありましたか。私ができる範囲でしたらお手伝いしますよ」
「えっ! えーと、うーん……いえ! ちょっと探しものをしてただなので大丈夫です! 大したものではないので! ありがとうございました! それではまた!」
そう言って勢いよく頭を下げると、ぴゅうっと走り出してしまった。止める間もなく遠くなる背中に声を掛けることもできず、霧島は見送ることしかできなかった。
そのまま彼女が校門を越えて行ってしまうのを見届けて、霧島はちいさく息を吐く。これは、どうとるべきだろう。相手は最初から霧島を知っているようだった。赴任時の始業式で挨拶をしているので当たり前ではあるが、どんな印象を持たれていたというのか。有名と言っていたからなにか変な噂をされているのかもしれない。いずれ田中から聞き出そう、と彼女は思う。
白井絵空が立っていた辺りを探してみるが、茂みばかりで何があるというわけでもない。
しばらく考えても答えは出ず、段々と寒くなってきたため、今日のところは家に帰ることにした。
【幕間2】
お昼前の体育の授業から帰ってきたら、鞄の中に入れていた小物入れがなくなっていた。
「えっ……あれ……」
何度も探すけれど、入れたはずのポケットの中に入っていない。家に置いてきただろうか。いや、持ってきているはず。中には何が入っていたっけ。頭痛薬、化粧品、生理用品、財布をなくしたときのための千円札、電話番号の一覧を書いたメモと、そう、お守り。
小さい頃にもらったお守りが入っている。
さっと血の気が引くのがわかった。落としたのだろうか。いつ? わからない。教科書や筆箱を取り出したとき? その時には入っていただろうか。思い出そうとするけど、記憶はぼんやりしている。なくしたのかなと思うと一気に気持ちが沈んだ。なくさないようにと、常に持ち歩く小物入れに入れていたのに。
クラスの人に見なかったか聞いたけど、誰も見ていないと言っていた。
情けなくなって、お昼ごはんを食べる元気も出なかった。ごはんを食べず、一応、と思って歩いた経路を逆に戻って探したりしてみたけど見つからなかった。
――その悩み、どうにかしてあげようか?
頭の中に、わたしだけに聞こえる声が響く。わたしはそれに、ゆっくり首を横にふる。
声は、ペンダントみたいに首から下げた筒から出ているらしい。
あの日、わたしが拾った謎の筒は、自分を何かの神様の一部だ、と言った。昔はどこかで神様をやっていたけれど、時が経つうちに力を失って転がっていたのだという。名前はないみたいだったので、単純に『ツツ』と呼んでいる。
ツツは、限定的だけど、不思議な力を持っているらしい。ただ、今は本来の力よりも小さな力しか持っていない。力を使えば使うほど、段々と元の力に近づいていくそうだ。そのためか、ツツは私に力を使うようにたまに言ってくる。拾ったわたしの許可がないと力が使えないそうだ。
でも、わたしはまだツツの力を使ったことはない。
わたしなんかに見つけられたツツには悪いかもしれないけど、そんなすごい力をわたしのために使うなんて、どう考えたって、もったいない。それに、こういうなくしものを探すことに関して、ツツの力はあまりに向いていない。
結局、昼休みが終わるまで探しても、授業が全部終わってから探しても、小物入れは見つからなかった。学校に来るまでに落としていれば警察に届いているかもしれない。帰ったら、警察に連絡してみよう。
そんなことを考えてトイレの個室にこもっていたときだった。
「ねえ、見た? あいつ、相当必死だったよね〜。普通に探しても見つかるわけないのに」
「ね、うける」
その声は三島さんと、知らない誰かの声だった。わたしは思わず声を潜めてしまう。別にここで出ていったっていい。ただ、顔を合わせたら嫌だなあ、と思っていた。
ただ、その思いも続く言葉で一気に凍りついた。
「あのポーチ、ブランドものでしょ? もらっておけばよかったよね」
けらけらと笑う声に、静かに考えが巡る。
ポーチ。小物入れ。わたしが使っていたのは確か、フランスのブランドのものだった。
必死だった。探していた。見つかるわけない。あいつ。面白おかしく言われている、三島さんたちが嫌っている『あいつ』。
それは、わたしのことじゃないのか?
「盗んだらどっかでバレた時にめんどくさいじゃん。探せば出てくるくらいのほうがいいの。適当に校庭に捨てといたから、いつか誰かが拾うでしょ?」
「おー、はるっちは頭いいな〜」
三島さんの下の名前は『はるか』だったはずだ。三島さんで間違いない。やっぱりわたしのことだ。わたしが小物入れを見なかったか聞いたときのあの子の顔を思い出す。あの顔は、嘘の顔だったのか。
三島さんたちがいなくなってからしばらく待って、わたしはトイレを飛び出す。もう夕方だ、早く探さないと見つけられないと思った。
でも、校庭は広くて、探すうちにまた暗くなってしまった。
小物入れは――お父さんからもらったお守りは、見つからなかった。
「こんばんは。どうかしましたか。もう下校時刻を過ぎていますよ」
そう、声を掛けられたのは、暗くなってしばらくしてからだった。
全然見つからなくて途方にくれていたところだった。誰だろう、と顔を上げた。
そこには金色の長い髪をした、美女が立っていた。
驚きのあまり声が出なかった。表情はきちんと作れていただろうか。保険医の霧島先生。三学期から学校に急にやってきたミステリアス美女。常にきりっとした表情をしていて、下手なことを言うと軽蔑されそうな迫力がある。既に何人かの男子が撃退されたという噂だ。
間近で見ると、背も高くて、スタイルが良くて、顔も綺麗で、髪までさらさらしていて隙がない。ちんちくりんの自分と比べると、美女とお子様、なんて言葉が浮かぶ。
どきどきしすぎて、なにか適当な返事をしてしまった。霧島先生はそれを聞いて少しこっちを見たまま黙ると、何故か自己紹介を始めた。もちろん霧島先生のことは知っている。というか知らない人の方がこの学校では少ないんじゃないかと思う。有名人だし。
「有名……?」
わたしの言葉に、先生は不機嫌そうな表情になる。その迫力にわたしは何もしていないのに自白しそうになった。美人は怖い顔をしても美人だけど、その目力が余計にこわい。
叱られるのだろうか。そう思って構えていると、先生はふっと微笑んだ。
「何か困ったことでもありましたか。私ができる範囲でしたらお手伝いしますよ」
天使みたい、と思った。
綺麗な笑顔。素敵な表情だった。こんな人みたいに自然に誰かを気遣える人になりたいな、と思った。
そんなことを思ってしまったのもなんだか恥ずかしくて、わたしは頭を下げてその場から走り出してしまった。
息が切れるまで走った。胸がどきどきしていた。変な子だと思われただろうか。疲れたので、足を止めて息を整える。それでもどきどきが止まらなかった。なぜだかわからないけど、頬が緩んでいた。お守りをなくしてしまったのに、そんなこと気にならないくらいに、楽しくなっていた。
「ねえ、ツツ」
――どうしたの、エソラ。願いは見つかったかい。
服の中で揺れるツツが、誰にも聞こえない声で返事をする。わたしはツツを左手でぎゅっと握りしめて、言う。
「わたし、先生みたいになりたい。誰かが困っていたら手を差し伸べられるような人になりたい。だから、そのために……ツツの力を使うよ」
胸のドキドキが収まる前に、宣言する。ツツの力の使い方は知っている。それを使えば、きっと色んなことができるはずだ。
ツツは返事をしなかったけど、きっと神様だったのだから、喜んでくれていたのだと思う。
手の中で、銀色の筒が静かに震えていた。