「本当に賢い人は分かりにくい話を分かりやすく説明できる」という主張について

結構前にtwitterで「本当に賢い人は分かりにくい話を分かりやすく説明できる」という主張とそれに対する多くの反論を見かけた。これをみて私の思ったことを書こうと思う。

まずわかりやすい説明とはなにか考えよう。わかりすい説明の特徴として、次の二つがあげられるだろう。一つは構成が良かったり、使われている単語がわかりやすいということであり、もう一つは、難しい話がうまく単純化されているということである。前者の特徴を備えている説明がよい説明であることは疑いの余地がない。だが後者の単純化については注意が必要である。単純化すれば説明はわかりやすくなるだろうが、当然その説明は不正確なものになり、聞き手の誤解を招く可能性も高まる。そこで説明する人が注意すべきなのが、聞き手の目的である。聞き手がただの好奇心で聞いただけの場合と、重要な決定をするための前提知識のために聞いた場合では、求められる回答が違うのは当然である。また聞き手の知的水準によっても変わるだろう。説明する人は、聞き手の属性や目的に沿って、適切な単純化を施して回答をすることが求められる。それをできるならその人は説明がうまいといえるだろうし、それを賢いと形容することもできる。だがそれができないからといって賢くないということにはならない。優秀なスポーツ選手がすべて優秀な指導者になれるわけではないのと同様、科学の難しい理論を使いこなすような賢い人のなかにも説明が苦手な人は存在するだろう。また世の中には何年間も専門的に学んだ後にやっと理解のスタートラインに立てるような難しい理論もあり、それを素人に理解させるというのは不可能という場合もある。いずれにしろわかりやすい説明ができなかったからといってその人を賢くないと評価することはできない。わかりやすい説明をできることは、賢いことの十分条件であり、必要条件ではない。

ではなぜ人々は冒頭のように考えるのだろうか。可能性の一つとして、難しそうな単語を並べ立てて自分を賢く見せようとする人の存在があげられる。物事を簡単に説明するのは難しくても、不必要に難しく説明するのは比較的容易であるので、簡単なことをわざと難しく説明して自分を賢く見せようとする人がいる。そのような人を嫌うがゆえにそのような考えに至ったということが考えられる。もう一つの可能性としては、自分が理解できない難しいことを理解している人に対する嫉妬が考えられる。難しいことを説明するためにどうしてもわかりにくい説明をせざるを得ない人を否定したいがために、理解しがたい説明をする人は悪だと考えるようになったのかもしれない。

上記を踏まえると説明をするのが難しいのと同様、説明を受けるのも難しいといえるかもしれない。説明を受ける側は何に気を付けるべきだろうか。まず言えるのは、説明を受ける際その目的を明らかにすることだろう。それだけで説明をする側はだいぶやりやすくなるはずだ。もう一ついえるのは、信頼できる人、情報源に頼る、それが不可能であれば様々な人から説明を受け比較するということである。もっとも誰が信頼できるかを判断するのも相当難しいのだが。いずれにしろ説明を受ける時は、完全に受け身になるのではなく主体性をもって情報の精査を行うことが必要だろう。

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