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小林秀雄作品「秋」の考察補足1

1.「牛」は見えているか

道ばたの石灯籠に牛が繋がれていた。いい黒い色をして、いい恰好をしている。コーンビーフになる牛は知らないが、君ならよく知っているよ。日本人は千年も前から君を描いてきた。だが、今日は失敬する。森が見える。海龍王寺の森ではないか。行かなくてもわかっている。松の木が五六本立って、時間のお化けのような経堂が、人気もないところ、荒れているのだ。私はただ急いでいた。

「秋」

①牛は仏性を示す

十二支のうち、牛はもっとも仏教とかかわりが深い動物だ。いまでもインドでは大切にされている。お釈迦様の時代は、実際はどうか知らぬが、牛は神聖な動物であり、貴重な存在というところから物の価値もその頭数で数えられていたという。仏さまは、しばしば牛にたとえられ「牛王」とも呼ばれた。ちなみに、お釈迦様の本名(幼名)はパーリ語で「ゴータマ・シッダッタ」。ゴータマは「最上の(tama)」「牛(go)」を意味する。

「日本人は千年も前から牛を描いていた」とある。中国、宋の時代の禅画「十牛図」は悟りに至る十の段階を十枚の画と詩で現している。「真の自己」を牛とし、真の自己を求める人を牧人(牧者)の姿で表すという。
1~10まで各図の説くところを以下に見てみよう。
1.尋牛—仏性の象徴たる牛を見付けようと発心したが、見つからない状況。
    人には仏性が備わっているが、人はそれを忘れ分別の世界に陥る。
2.見跡—経や教えに拠って仏性を求めるが分別の世界から逃れられない。
3.見牛—行において、牛を自分の身上に実地に見た境地を得る。
4.得牛—牛を捉えたとしても飼いならすのは難しく、時に姿をくらます。
5.牧牛—本性を得たら真実の世界が広がる、捉えた牛を離さず押えよ。
6.騎牛帰家—心の平安を得れば、牛飼いと牛は一体で牛を御する事はない。
7.忘牛存人—家に戻れば牛を捉えたことも忘れ、牛も忘れる。
8.人牛倶忘—牛を捉えんとした理由も、捉えた牛も、捉えたことも忘れる。
9.返本還源—何もない清浄無垢の世界から、ありのままの世界が見える。
10.日鄽垂手—悟りを開いても、そこに留まっては無益。世俗に戻り人々   に安らぎを与え悟りに導くべきである。

②牛が描かれる理由と本質

「真の自己」が牛で表されるのは、仏教の発祥地インドの聖牛という考え方と、アジア農耕民族にとって牛は実際生活の支えであった事から、中国人には生命維持のための宝であったためであろう。
十牛図において本質的なことは、牛が真の自己を象徴するだけでなく、野牛を捉えて牧し飼いならしていく、牧人と牛との動的なかかわりが「自己の自己への関わり」のリアルな比喩になっている点であると思う。
(参考;影山純夫『禅画を読む』淡交社 2011年刊)

小林秀雄は「道ばたの石灯籠に牛が繋がれていた」と書いているが、この牛は見えていた牛だろうか。石灯籠に牛をつなぐとは、何かの比喩でなければあり得ない事だ。石灯籠は決して強固な牛つなぎの杭ではなく、容易にたおれるものだ、が寺への道を照らしている。そこに繋がれた牛は「黒くて」「格好いい」「千年も前から描いてきた」とは、禅画の十牛図ではないか。雪舟の「牧牛図」は著名である。作品「秋」の発表の二か月後、昭和二十五年三月号『芸術新潮』に作品「雪舟」が掲載されている。が、この牛には「今日は失敬する」かかわらないでおこう、今はそれではない。牛とのかかわりが「真の自己」とのかかわりになるなら、この際、自己の自己に対するかかわり、自己の過去と現在のつながりが見えてきているのだから、それから離れられるはずだ。過去に封じ込められ、思い出につながれた自分から逃れてきたのではなかったか。だから繋がれた牛にこだわってはいられない。
「私はただ急いで」人生の秋の向こうへ、もっともっと違う自分を探して歩き続ける。

2.海龍王寺

海龍王寺経蔵

和銅三年(710)の平安遷都の際、藤原不比等が土師(はじ)氏から土地を譲り受け邸宅を構え、古からあった北東側の寺院を壊さずに残した。この古くからの寺院が海龍王寺の前身である。不比等の没後、娘の光明皇后が相続し、邸宅は皇后宮となった。皇后は遣唐留学僧・元肪が仏法を携えて無事帰国することを願い、寺院の伽藍を整備したとの言い伝えがある。
天平七年(734)に元肪が帰国すると、聖武天皇、光明皇后は最新の仏教や鎮護国家の基礎となる仏教政策を学んだ元肪を重用し、内裏に近いこの寺院の住持に任じた。玄昉が唐からの帰路、暴風雨に遭遇するも「海龍王経」を唱え無事に帰国したことにちなんで、寺号が海龍王寺と定められたと、寺の由緒にある。
宮廷の寺院として繁栄したが、平安京遷都以後は次第に衰退、鎌倉時代に再興、伽藍の復興が進み、戒律道場として栄えた。室町時代、応仁の乱の余波を受け再び衰退。江戸時代には幕府から知行百石を与えられ伽藍を維持するが、明治時代の廃仏毀釈で東金堂を失うなど大打撃を受けた。
昭和28年まで寺は荒廃。敗戦後の日本の文化を代表する寺々の置かれた状況そのままである。この荒廃のなか、小林秀雄は其処に向かって歩いている。

海龍王寺には聖武天皇、光明皇后、僧上玄昉の故事が刻まれている。
「行かなくともわかっている」とは、敗戦後の日本ではどこもかしこも荒れ果てている、まして奈良の寺だ、という心か。また、仏教を日本統治の方法、制度として採用し、国分寺、国分尼寺を全国に創建、律令制を施行した千年以上前のことは、解っているはずだということか。
歴史の中で中国の法制度にならい、仏教道徳で人心を掌握し、統一国家になった。遥かに時代が離れているとは言え、その中国と戦い、敗れた。戦争中に小林秀雄は従軍記者として、何回も中国・満州を見てきている。大陸との文化の違いを書いてもいた。(「満州にて」「南京」「蘇州」など)
いまこそ日本について、小林秀雄が考えていることがあるはずだった。

だが、小林秀雄の時間は記憶を行き来して、現在をどうとも語らない。そこが、「秋の愁嘆」に似る象徴的な表現で示される。
青年の時、二十年前の夏に来た奈良の地は、やはり荒れ果てていた。思いは重なっている。解放されたはずの過去に、忘れたはずの思い出に、想いは残っている。確認すれば、想いは微妙にずれて、そのわずかな差異が生きてきた二十年を語るはずなのだろうが、そうした「告白」は小林秀雄の表現ではない。差異を表現するのではなく、行く先にあるもの、大きな対象にぶつかっていきたい、遠くへ行きたい、そういう歩き方が小林秀雄であろう。

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