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フランコスペイン時代の検閲

フランコ時代の映画検閲は明確な基準を持たず恣意的な運用で制作者たちを悩ませ続けた。個別の作品への運用と受容まで見なければ制度そのものを捉えることは難しいが、ひとまずその手がかりだけでも触っておきたい。


検閲の歴史


『フランコ期の映画における政治文化』(大原志麻)はベルランガのフィルモグラフィーとスペインの検閲について書いた重要な論考。PDF→https://shizuoka.repo.nii.ac.jp/record/4160/files/110405001.pdf
ここからまずベルランガの言葉を引いておこう。

(検閲は)明らかに非常にスペイン的、すなわちやっつけ仕事であった。検閲はちぐはぐであり、宗教的、性的、道徳的なものの中に政治的意図を探すことにとりつかれていた。それは宝くじやロシアンルーレットの一種で、誰もなにをなぜ検閲するのかわからなかった。その中で生じる最悪のことは、自らを大きなフラストレーションを引き起こす自己検閲へと破棄自判してしまうことである。確実に脚本から削除されるものがあり、それが既に大きな制限となっていた。しかし最悪なのは、検閲の動機が不条理であるため、その検閲するかしないかがよくわからないシーンを、もしかしたら検閲を通るかもしれない疑念を抱きつつ、どうするか決めることである。自己検閲で最悪なのは、あまりにも多くのシーンを脚本から取り除きすぎ、再計画が不可能となることと、遅延により融資を失うことである。このため過剰なレトリックに走り、検閲ノイローゼになってしまう。スペインの検閲が、より組織されていて、明白な規定があれば、全ての人間が検閲官のように考えてしまうようなことにはならなかったはずなので、その意味において、スペインの検閲は大成功を収めたといえる

続いて検閲関連年表と40年代からニューウェーブまでのまとめ。

検閲では、共産主義、社会主義、自由主義に関わる政治思想のカット以外にも、軍隊や教会、聖職者に対して少しでも敵対するような台詞もカットされた。女性の素足や、キス・シーン、水着姿などが検閲によりカットされた。これら検閲によりブニュエル監督が追放されている。40年代のスペイン映画の方針は50年代に大きな転換期を迎える。第二次大戦後スペインが国際社会に復帰していく中で、1951年に観光省が創設され、外国向けのスペイン映画が制作される。観光誘致を意識した映画制作が採用され「カルメンもの」のパロディーフラメンコやマカロニ・ウェスタンなど文化を単純化し、それを収入源として見込む映画制作が推進された。このようなスペイン化は文化の埋葬であるともいわれ、映画史において「80年代までのスペイン映画は陳腐なコメディーであった」という決まり文句があるが、それはこの時代からの映画作りの伝統によるものであろう。50年代は検閲の時代でもあったが、スペイン発の映画が国際的に評価され始めた時期でもあった。また、検閲の規定(Código de Censura)から、社会の現実を表現することに重点が置かれる移行期にあたり、そのような流れの中で、NO-DOのモノポリーの終焉の時期にもあたる。この時期に、あくまでも国策に沿ったかたちで娯楽映画を作った人たちとは一線を画する映画が製作されるようになる。スペイン映画史を変えてきたのは、スペインの醜い側面(Cara fea de España)を描く社会批判であり、Surcos事件により、共和国時代からの風刺、風俗描写、社会的ドラマ、人種差別、民俗的、滑稽、策謀といった映画におけるスペインの理が、フランコ期40年代の中断を経て回帰してくる。このような新しい流れを象徴するのがベルランガ映画である。

このあとの紙幅ではベルランガ映画の具体的な分析が読める。ベルランガ映画の登場人物たちが聞き取れないほど早口でセリフをまくし立てるスクリューボーラーなのには検閲の存在があったというわけ。フランコが死去したとき周囲の予測と裏腹にベルランガは哀しみにくれて喪に服したという話は興味深い。

禁則集

さて続いて具体的に何が禁止されていたのか探っておこう。
参考資料は岡本 淳子『現代スペインの劇作家 アントニオ・ブエロ・バリェホ - 独裁政権下の劇作と抵抗』劇作家バリェホについての評論なのだが、演劇における検閲と並べて映画について少しだけ論じている。検閲官の報酬額などマニアックな記録が読める。

まずは出版検閲のはじまり。内戦勃発と同時に両陣営ともに宣伝合戦を繰り広げる(ここでは論じていないが社会主義リアリズムにとっての禁則もあっただろう)。

一九三六年七月に内戦が勃発すると、共和国政府軍および反乱軍の両陣営は、戦備として、ラジオ、びら、歌、映画、演劇などの伝達媒体を利用する。そして反乱軍側はクーデター一〇日後にはすべての出版物に対する検閲を始め、一週間をおかずして「出版・宣伝事務所」を設立する。同年一〇月、フランコ将軍が反乱軍側の国家の長に就くと、当事務所の権限が政府機関「出版・宣伝課」に移される。一二月には当課が、社会主義的、共産主義的、無政府主義的な書物、新聞、パンフレット、あらゆる種類の印刷物を検閲し、加えて、性的興味をそそる 挿絵などの制作、商業取引、流通を取り締まるようになる。かくしてフランコ政府の検閲は徐々に全体主義的な様相を帯びてくる。
一九三八年四月、「出版法」が布告され、書籍、雑誌、映画、演劇、見世物、公共の行事、新聞、定期刊行物等すべてに事前の検閲が定められる。たとえば書籍の検閲における審査内容は以下の通りである。

一、カトリックの教義を攻撃していないか?
二、道徳・倫理に反していないか?
三、教会や聖職者を攻撃していないか?
四、フランコ体制やその組織を攻撃していないか?五、フランコ体制に貢献している人物、貢献してきた人物を攻撃していないか? 
六、非難に値する部分が、作品の全体的内容を左右するか?

しかし、詳細な基準については法で定められておらず、検閲官にとっても作品の審査は容易でなかった。ジャンルを問わず共通して問題にされたであろう審査基準をマヌエル・L・アベリャンは四つに大別している。
一、性モラルに関しては表現の自由は禁止。性的羞恥心や由緒ある習慣に反すること、モーセの第六戒(なんじ姦淫するなかれ)に反することは違反。堕胎、同性愛、離婚への言及は禁止。
二、フランコ政権が導入した制度、イデオロギー、法律に対する反対意見は禁止。
三、猥褻、挑発的、慎み深いマナーに適さない言葉の使用は禁止。
四、宗教を機関や階級として扱うことは禁止。

『カサブランカ』や『自転車泥棒』が吹き替えでセリフを差し替えたり、『ターザン』の露出した肌が引っかかったり、今から考えると素朴な価値観だが、これは同時代の他国とも大差無いようにみえる。参考までにエロ方面での検閲を追った記事が以下。

第二次大戦後になると潮目が変わる。内戦後のイデオロギー抑圧装置としての検閲は、国連排斥決議と欧州連合からの拒否を受けて方針転換を迫られる。観光推進にとって映画は格好の宣伝材料となり、そのトップにフラガが任命される。

一九四六年、国連から排斥決議を受けたこともあり、政府はその後、ファシズム色を控え、ナショナル・カトリシズムの言説を前面に出していく。一九四五年から一九五一年まで、教育省が検閲を担当したこの間、検閲は多少緩くなったようだが、依然としてナショナル・カトリシズム路線は優勢であった。その後、一九六二年にマヌエル・フラガ・イリバルネが情報観光大臣に就任すると、彼は「開放主義」を取り、限定的ではあるが出版物 の自由化を認める出版法を制定した。この動向は、フランコ体制が社会、経済及び文化的変化に伴い、国内外で生き残るために必要な自国のイメージ作りであったとも言われる。

フラガのもとで再任されたガルシア・エスクデロ映画局長は、自身のシンパを送り込み検閲基準を明確化させる。

検閲の基準に一貫性がなかったことは先述したが、当然のことながら基準を求める声も少なくなかった。そして、一人の検閲官が、新しい政権における演劇とはいかなるものであるべきかをマニュアルにした。それを基にして一九六三年二月に「映画検閲規定」が作成され、翌年には演劇に適用できる『映画および演劇の検閲に関する報告書』が刊行される。詳述はしないが、禁止されているテーマや事柄をいくつか見ておこう。
●自殺の正当化
●哀れみからの殺人の正当化
●復讐や決闘の正当化(特定の時代や場所の社会習慣である場合は除く)
●離婚、姦通、違法の性的関係、売春、結婚制度や家族制度に反することの正当化
●堕胎、避妊法の正当化
●性の堕落(同性愛を含む)
●麻薬中毒、アルコール中毒を明らかに勧誘するような描写
●夫婦生活の親密な部分
●暴力。人間や動物に対する乱暴や残虐行為、恐怖のイメージや場面
●人間の尊厳を傷つけるイメージや場面
●カトリック信仰と実践に対する不敬な描写
●政治イデオロギーや体制あるいは式典を侵害するような侮辱的で低俗な描写
●歴史的な事実、人物、環境の意図的な歪曲
●民族、人種、社会階級間の憎悪を支持すること
●祖国を守る義務、その義務を要求する権利を否定すること
●カトリック教会、カトリックの教義、道德、信仰、国家の基本原理、国家の尊厳、国内外の安全保障、国家元首を侵害するすべてのもの

カトリックの教義に照らした検閲基準にとくに真新しいことは書いていない。スペインの特殊事情は今ひとつの権威主義にあり、"名前を言ってはいけないあの人"とその名前が口にされないよう目を見張る箝口令として機能する。フランコ時代にスペインを訪れた観光客が、フランコという名前を口にしただけで治安警備から補導されたなんて話もある。戦後20年となる頃からフランコ自身公の場に姿を現す頻度を減らし、政治の実権は次世代へと移り変わっていくと、何を誰がどう検閲するのかがますます曖昧になっていく。

これら禁止されたテーマに関して、ベルタ・ムニョス・カリスは鋭い分析をしている。彼女によれば、「その真の目的は大規模な人権侵害を行ってきた体制のイメージを守ることである。それだからこそ、たとえば、規定では、ある種の事実に関する『病的な、あるいは根拠のない』描写が非難されている。体制が避けようとしているのは、舞台上に自分たちが描写されることであり、結局のところ、自らの存在を隠蔽しようとしている(たとえば、拷問、あるいは銃殺の場合がそうである)」 (Muñoz Cáliz, 2006) のである。

規定がある程度定められたが、その内容は漠然としているうえ規定の解釈が検閲官によって異なり、相変わらず検閲は恣意的であった。六〇年代に入るとスペインは対外的にも門戸を開くようになり映画総局の刷新もあって、海外の作品は比較的容易に検閲を通った。海外作品は現実のスペインとは無関係であるというのがその理由で、 国内の作家もこれにならって国内と国外と上映される場所によって内容を変えたり、劇中の場所を海外にしたり、登場人物に外国人の名前をつけたりすることを一手段として用いた。

さて実際に検閲を行っていたのはどのような人々だったのか。検閲官は映画のプロではないし、報酬も特段高くもなかった。

検閲官は検閲が本職ではなく副業であり、報酬もそれほど良くはなかった。ちなみに、一九五〇年の検閲官の年俸は、一級行政官が一万四千四百ペセタ、一級部局長が九千六百ペセタ、出版局の三級検閲官は五千ペセタで あった。上演をチェックするために地方に出向く審査官は、一九五三年の記録で、月収二百五十ペセタである。

演劇部門の検閲官に選ばれたのは、劇評家、演劇とは関係ない部門の新聞記者、随筆家、映画の脚本家、小説家、 劇作家、演出家や俳優などの舞台関係者、そして聖職者である。先述のように審査は検閲官の主観に左右されたため、一度却下された作品が、別のときには瑣末な変更のみで、あるいは変更なしで許可されることも少なくなかった。すべての検閲官が専門的な知識を持っているわけではないため、作家の工夫次第で検閲を通過することはそれほど困難ではなかったと推察される。

60年代ともなると経済成長と第二バチカン公会議以降の改革路線が国内の不満分子の背中を押し、抗議運動や労働運動が公然と行われるようになっていき、徐々に規制を緩める動きが出始める。

一九六六年三月には新たな出版法、通称「フラガ法」が国会で承認された。この出版法は内戦以後の厳格な出版規制を緩和しようとするものだが、新聞に対する政府の監督権の留保、国外ニュースの統制、出版物の事前押収などは依然として続いた。検閲官が行っていた予備審査は作家による自主検閲になる。言論・出版の自由が徹底されたわけではなかったが、ある程度許容されたため、出版物の点数が増加する。しかしながら、出版法のなかに罰則規定が盛り込まれ、罰金刑が科された。その件数は、一九六六年には二三件、六七年には七二件、六八年にはか は九一件と徐々に増加した。その事実が、取り締りが決して緩和したわけではないことを物語っている。この年に初めて女性二名が検閲官となる。検閲官の報告に対して激しい論争を引き起こした作品に関しては、国内外で湧き起こった反論を抑えるため、あるいはフランコ政権に民主的なイメージを与えるために許可される場合も少なくなかった。

1976年に検閲が撤廃され、他国同様業界団体による年齢別の自主規制に切り替わる。それまで上映不可能だったチャップリン『独裁者』や『ラストタンゴ・イン・パリ』などが劇場にかかるようになり、後者は記録的な動員となるも、映画が終わる頃にはエロを期待していた観客の大半が席を立っていたなんて話も。観客動員を目論みソフトエロ路線ばかりが劇場を埋めて、採算の見込みが取れない国内製作本数は一時的に急落している。80年代にはいると公開後のテレビ放映まで見込んだ制作体制がピラール・ミロー総裁時代に確立し、かつての俊英たちは文芸路線に活路を見出していく。


以上、見たきた検閲制度は、一方的に特定の表象を禁じ、議論の俎上に載せること自体を拒絶して、人々に無力感と服従心を植え付ける効果があった。またそれと逆に特定の方向性を持った検閲基準に抗い"攻略"しようとするがため、検閲が意図した方向性を極端に歪めた創意を誘発したが、作品の芸術的な価値を伴っていたのかは個別の作品ごとに見なければ意味がない。あんまり深追いするとドツボにはまりそうなのでこのへんでおしまい。
あとは毎度のごとく話を脱線させて小ネタを散らかしておく。

革新?保守?ガリシアの男

66年出版法を作ったマヌエル・フラガ・イリバルネ(Manuel Fraga Iribarne、1922年11月23日 - 2012年1月15日)について書いておこう。このひとは映画局長にエスクデロを選出しスペイン映画界の刷新をお膳立てした人物で、検閲と宣伝を考えるうえで重要な人物なので、彼とその周辺の逸話を書いておこう。

出版法に先立つ同年1966年1月米軍哨戒機が給油中爆破、落下しアンダルシアのど田舎パロマレスに乗組員の断片と水爆4個を落っことした。米軍とスペイン政府は報道管制を敷き、外国人記者がスクープをとった新聞をスペイン中のキオスクから撤去させる。加熱するメディアに対抗してフラガは周辺地域の安全性を訴えるべく記者団の前で自ら水着になって海に飛び込んだ。

左から2番目がフラガ

もっともこの時点では落下した4つのうち残る1つの水爆が未発見で、のべ80日間にわたって大規模な捜索を余儀なくされる。Primeなどで見られる『パロマレス:米軍機水爆墜落の真実』はドキュメンタリーのミニシリーズ(全4話)で事故を検証しており、権威主義体制下の情報統制や米軍との緊張、地元民と潜水艇アルビンの大活躍が見どころである。

フラガは当初進歩派として出てきたものの、出版法を通し、「ポルノと毛沢東主義を終わらせられなかっ」たことで罷免されてからはフランコ体制と距離を置きはじめる。またフランコ死去後の民主化移行期には改革を担うと目されながら、保守派のまとめ役になりすまして国民党を創設してゴンザレス社労党の前に立ちはだかった。アルモドバルがフランコ時代の記憶としてフラガを批判しているのをインタビューで読んだことがあるが、フラガの政治生命は長い。90年代国政から退いてからは、故郷ガリシアの首長として地域ナショナリズムを確立して、この時期の保守長期政権時代を「パックス・フラギアーナ」と呼ぶそうな(くわしくは坂東省次 監修 |牛島万 編著『現代スペインの諸相 ― 多民族国家への射程と相克』)。

さらに余談ついでに、フラガをはじめアクの強いガリシア人たちについては、細田晴子『カストロとフランコ』が面白い。スペイン外交史を論じた余白で、彼の地にルーツを持つ傑物たちの活躍を概観している。

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何の話だっけ。そうそう検閲、検閲といえばヘイズ・コード。

ヘイズの十戒

検閲といえば、かつてアメリカに存在した映画製作倫理規定(プロダクション・コード)との比較はいつかやってみたいところである。加藤幹郎『映画 視線のポリティクス: 古典的ハリウッド映画の戦い』の付録にコードの全文翻訳が載っている。記述が具体的で、演出法にまで踏み込んで書いてる箇所が読みどころ。
木谷佳楠『アメリカ映画とキリスト教 -120年の関係史』はpicture-preaching映画説教からジーザスブームまで、カトリックや宗教保守がアメリカ映画にどう対峙してきたのかを論じた本で、小ネタもいろいろあって面白かった記憶。

気力とネタが尽きたので一端これで終わり。同じカトリック映画大国イタリアやポルトガル、ポーランド、はたまた故国を去った亡命者たちがたどり着いた中南米あたりの検閲もいずれ探ってみたい

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