フランコ時代の映画検閲は明確な基準を持たず恣意的な運用で制作者たちを悩ませ続けた。個別の作品への運用と受容まで見なければ制度そのものを捉えることは難しいが、ひとまずその手がかりだけでも触っておきたい。
検閲の歴史
『フランコ期の映画における政治文化』(大原志麻)はベルランガのフィルモグラフィーとスペインの検閲について書いた重要な論考。PDF→https://shizuoka.repo.nii.ac.jp/record/4160/files/110405001.pdf
ここからまずベルランガの言葉を引いておこう。
続いて検閲関連年表と40年代からニューウェーブまでのまとめ。
このあとの紙幅ではベルランガ映画の具体的な分析が読める。ベルランガ映画の登場人物たちが聞き取れないほど早口でセリフをまくし立てるスクリューボーラーなのには検閲の存在があったというわけ。フランコが死去したとき周囲の予測と裏腹にベルランガは哀しみにくれて喪に服したという話は興味深い。
禁則集
さて続いて具体的に何が禁止されていたのか探っておこう。
参考資料は岡本 淳子『現代スペインの劇作家 アントニオ・ブエロ・バリェホ - 独裁政権下の劇作と抵抗』劇作家バリェホについての評論なのだが、演劇における検閲と並べて映画について少しだけ論じている。検閲官の報酬額などマニアックな記録が読める。
まずは出版検閲のはじまり。内戦勃発と同時に両陣営ともに宣伝合戦を繰り広げる(ここでは論じていないが社会主義リアリズムにとっての禁則もあっただろう)。
『カサブランカ』や『自転車泥棒』が吹き替えでセリフを差し替えたり、『ターザン』の露出した肌が引っかかったり、今から考えると素朴な価値観だが、これは同時代の他国とも大差無いようにみえる。参考までにエロ方面での検閲を追った記事が以下。
第二次大戦後になると潮目が変わる。内戦後のイデオロギー抑圧装置としての検閲は、国連排斥決議と欧州連合からの拒否を受けて方針転換を迫られる。観光推進にとって映画は格好の宣伝材料となり、そのトップにフラガが任命される。
フラガのもとで再任されたガルシア・エスクデロ映画局長は、自身のシンパを送り込み検閲基準を明確化させる。
カトリックの教義に照らした検閲基準にとくに真新しいことは書いていない。スペインの特殊事情は今ひとつの権威主義にあり、"名前を言ってはいけないあの人"とその名前が口にされないよう目を見張る箝口令として機能する。フランコ時代にスペインを訪れた観光客が、フランコという名前を口にしただけで治安警備から補導されたなんて話もある。戦後20年となる頃からフランコ自身公の場に姿を現す頻度を減らし、政治の実権は次世代へと移り変わっていくと、何を誰がどう検閲するのかがますます曖昧になっていく。
規定がある程度定められたが、その内容は漠然としているうえ規定の解釈が検閲官によって異なり、相変わらず検閲は恣意的であった。六〇年代に入るとスペインは対外的にも門戸を開くようになり映画総局の刷新もあって、海外の作品は比較的容易に検閲を通った。海外作品は現実のスペインとは無関係であるというのがその理由で、 国内の作家もこれにならって国内と国外と上映される場所によって内容を変えたり、劇中の場所を海外にしたり、登場人物に外国人の名前をつけたりすることを一手段として用いた。
さて実際に検閲を行っていたのはどのような人々だったのか。検閲官は映画のプロではないし、報酬も特段高くもなかった。
60年代ともなると経済成長と第二バチカン公会議以降の改革路線が国内の不満分子の背中を押し、抗議運動や労働運動が公然と行われるようになっていき、徐々に規制を緩める動きが出始める。
1976年に検閲が撤廃され、他国同様業界団体による年齢別の自主規制に切り替わる。それまで上映不可能だったチャップリン『独裁者』や『ラストタンゴ・イン・パリ』などが劇場にかかるようになり、後者は記録的な動員となるも、映画が終わる頃にはエロを期待していた観客の大半が席を立っていたなんて話も。観客動員を目論みソフトエロ路線ばかりが劇場を埋めて、採算の見込みが取れない国内製作本数は一時的に急落している。80年代にはいると公開後のテレビ放映まで見込んだ制作体制がピラール・ミロー総裁時代に確立し、かつての俊英たちは文芸路線に活路を見出していく。
以上、見たきた検閲制度は、一方的に特定の表象を禁じ、議論の俎上に載せること自体を拒絶して、人々に無力感と服従心を植え付ける効果があった。またそれと逆に特定の方向性を持った検閲基準に抗い"攻略"しようとするがため、検閲が意図した方向性を極端に歪めた創意を誘発したが、作品の芸術的な価値を伴っていたのかは個別の作品ごとに見なければ意味がない。あんまり深追いするとドツボにはまりそうなのでこのへんでおしまい。
あとは毎度のごとく話を脱線させて小ネタを散らかしておく。
革新?保守?ガリシアの男
66年出版法を作ったマヌエル・フラガ・イリバルネ(Manuel Fraga Iribarne、1922年11月23日 - 2012年1月15日)について書いておこう。このひとは映画局長にエスクデロを選出しスペイン映画界の刷新をお膳立てした人物で、検閲と宣伝を考えるうえで重要な人物なので、彼とその周辺の逸話を書いておこう。
出版法に先立つ同年1966年1月米軍哨戒機が給油中爆破、落下しアンダルシアのど田舎パロマレスに乗組員の断片と水爆4個を落っことした。米軍とスペイン政府は報道管制を敷き、外国人記者がスクープをとった新聞をスペイン中のキオスクから撤去させる。加熱するメディアに対抗してフラガは周辺地域の安全性を訴えるべく記者団の前で自ら水着になって海に飛び込んだ。
もっともこの時点では落下した4つのうち残る1つの水爆が未発見で、のべ80日間にわたって大規模な捜索を余儀なくされる。Primeなどで見られる『パロマレス:米軍機水爆墜落の真実』はドキュメンタリーのミニシリーズ(全4話)で事故を検証しており、権威主義体制下の情報統制や米軍との緊張、地元民と潜水艇アルビンの大活躍が見どころである。
フラガは当初進歩派として出てきたものの、出版法を通し、「ポルノと毛沢東主義を終わらせられなかっ」たことで罷免されてからはフランコ体制と距離を置きはじめる。またフランコ死去後の民主化移行期には改革を担うと目されながら、保守派のまとめ役になりすまして国民党を創設してゴンザレス社労党の前に立ちはだかった。アルモドバルがフランコ時代の記憶としてフラガを批判しているのをインタビューで読んだことがあるが、フラガの政治生命は長い。90年代国政から退いてからは、故郷ガリシアの首長として地域ナショナリズムを確立して、この時期の保守長期政権時代を「パックス・フラギアーナ」と呼ぶそうな(くわしくは坂東省次 監修 |牛島万 編著『現代スペインの諸相 ― 多民族国家への射程と相克』)。
さらに余談ついでに、フラガをはじめアクの強いガリシア人たちについては、細田晴子『カストロとフランコ』が面白い。スペイン外交史を論じた余白で、彼の地にルーツを持つ傑物たちの活躍を概観している。
●●●
何の話だっけ。そうそう検閲、検閲といえばヘイズ・コード。
検閲といえば、かつてアメリカに存在した映画製作倫理規定(プロダクション・コード)との比較はいつかやってみたいところである。加藤幹郎『映画 視線のポリティクス: 古典的ハリウッド映画の戦い』の付録にコードの全文翻訳が載っている。記述が具体的で、演出法にまで踏み込んで書いてる箇所が読みどころ。
木谷佳楠『アメリカ映画とキリスト教 -120年の関係史』はpicture-preaching映画説教からジーザスブームまで、カトリックや宗教保守がアメリカ映画にどう対峙してきたのかを論じた本で、小ネタもいろいろあって面白かった記憶。
気力とネタが尽きたので一端これで終わり。同じカトリック映画大国イタリアやポルトガル、ポーランド、はたまた故国を去った亡命者たちがたどり着いた中南米あたりの検閲もいずれ探ってみたい