【初学者のための世界史(幹)】2-21.最大にして最後の宗教戦争、三十年戦争
前回は、絶対王政期にあったフランスについて解説しました。
今回は、その時代に起こった、最大にして最後の宗教戦争である三十年戦争について解説します。
16世紀ごろに大航海時代やルネサンス、宗教革命を経験したヨーロッパは17世紀には社会的不安が蔓延していました。
あらゆる変化が起こり、最初はその発見にみんなノリノリですが、時間が経つと悪い部分も明確に出てきて不安に襲われたというような感じです。付き合いたてのカップルのような。。
そんな中、神聖ローマ帝国内の新教徒(プロテスタント)が皇帝の旧教(カトリック)強要に対し反乱を起こしました。
怒れるプロテスタントは、皇帝の使いを二階の窓から投げ落とし、その上、落ちた使いに対し射撃しました(使いは落下先がゴミの上で射撃が重症にはならず生きて逃げれたらしいです)。
これが新ローマ帝国内の新教徒と旧教徒の決定的対立の決定打となり、三十年戦争が起こりました。
三十年戦争
この戦争は様々な思惑により国際的に争っていました。
まず一つ目は、旧教徒 VS 新教徒 の宗教的統一のための争いです。
神聖ローマ帝国で起こった反乱は周辺諸国も巻き込みました。
・旧教徒側・・・スペイン
・新教徒側・・・オランダ
この二国はちょうどオランダ独立戦争で対立していますから、ここでも争いました。
二つ目は、領土拡大のための争いです。
神聖ローマ帝国が内乱で弱っていると見たら、周辺国はここぞとばかりに襲いにかかりました。
デンマークとスウェーデンがその例です。
両国はどちらも神聖ローマをつぶしたいので新教国側に立ちました。
三つ目は、国際的覇権を巡る名家の争いです。
神聖ローマはアゴで有名なハプスブルク家が治めています。
それに対抗するは、絶対王政を強めたフランスのブルボン家です。時代としてはアンリ4世とルイ14世の間です。
宗教の視点で見れば、ブルボン家はルイ14世の時代にはナントの王令を廃棄したほどの旧教ですから、ハプスブルク家と一致するわけです。
ところが、フランスは新教徒側で参戦するんですね。つまり、三十年戦争は単なる宗教戦争ではなく、国家の威厳をかけた戦争だったのです。
三十年戦争の結果、新教の信仰は認められ、これをもって宗教戦争は終結しました。
また、領土拡大を狙った北欧の国では、スウェーデンが北ドイツを獲得し、ボルト帝国として強国化しました。
名家の争いは、戦場になった神聖ローマは荒れてしまいハプスブルク家の塚らが低下し、ブルボン家が強大化していきました。ルイ14世はこうした背景もあり絶対王政の絶頂期を堪能しました。
弱体化した神聖ローマからはプロイセンが力を持ち始めました。
兵隊王と呼ばれたフリードリヒ=ヴィルヘルム1世により軍を強化し、
哲人王と呼ばれた息子フリードリヒ2世により内政を安定化させることに成功しました。
遂には、ハプスブルク家の本拠地であるオーストリアを運の助けもあり勝利するまでになりました。
こののちもプロイセンは外交の大天才であるビスマルクが登場したりと、強国化していきます。
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