056.参勤交代はアロー・ダイヤグラムでスケジュール管理
生産管理、スケジュール管理の世界でよく使われる手法に、PERT、ダイヤグラム、アロー・ダイヤグラムという手法があります。ある製品を作るまでに10の作業が必要であった時、どのような順序で行えば最短で完成させられるか、着手から完成までの必要な作業を線で結んで、最適な作業手順・スケジュールを見つけ出そうという手法です。実際にプロジェクトのスケジュール管理などに、よく使われる便利な手法でもあります
これらの手法は、戦後、大きくなったプロジェクト計画を効率的に立てるために米軍やデュポン社などで開発されたものと教えられましたが、実は、こうしたダイヤグラムの手法をすでに1600年代の末に考案し活用していた軍学者がいます。
当時の幕藩体制では、各大名は、一定期間ごとに江戸での勤務(参勤)と領国での勤務(交代)が義務付けられており、大名にとってそのための移動は一大行事でした。
加賀藩のような大藩になると行列に参加する部下の数は2,000名を超えます。移動と宿泊の計画づくり、随行武士の食事など、参勤交代は「旅」ではなく「行軍」とされていましたから、道中は軍の兵站と同様に宿泊・食事は自家調達しなければなりません。なので、事前準備と物資の搬送、通過後の処理などの兵站は困難を極めたそうです。
合戦の行軍と同様にこの参勤交代のスケジュール管理と兵站を担当したのが軍学者で、いかに費用をかけずに効率的に往復するかは、かれらの知恵の絞りどころでした。
当時の宿場の規模は、それほど大きくなく、例えば、一茶の生まれた信濃の柏原宿は本陣を除けばほとんど民宿のような兼業農家が23軒で、各宿の座敷数は2~4。全部を借り切って畳1枚に2人を押し込み、廊下に寝かしても4~500名ほどしか泊まれません。
加賀藩の規模になると、どの宿場でも1つの宿場で全員が宿泊することは不可能なので、前後の宿場に分宿することになります。場合によっては野営もあったようです。手配をする細工人(今でいえばツアコンですねえ)と食事を作る料理人は行列に先行して到着までに準備を整えます。行列のしんがりは、1日遅れて、財務を担当する家老が追いかけ、宿場でかかった費用を精算していきます。
ことは順調に進むとは限りません。天候はおてんとうさま次第です。
移動の途中で雨が降って川が渡れなくなれば足止めをくい、宿の手配から食事の世話まで予定が変更されます。いまでも総勢2,000人の社員旅行といえば、雲をつかむような大変さ。それが天候に左右されて、毎日のように修正が生じるのです。当時のインフラを考えると、その煩雑さは想像するだに頭がおかしくなりそうです。
加賀藩の参勤交代での金沢~江戸間の移動日数は10泊11日~15泊16日ほどで行われたようです。そのルートも中心は、
・金沢から琵琶湖東を通り、関が原を抜けて中山道へ入る道と、
・北国街道を糸魚川で南に入り長野を通って追分で中山道に合流するコース
で設定されています。
しかし、この間、さまざまな街道、支道を臨機応変に選択できるように、脇街道を利用して宿場を網の目のように繋いで、状況に合わせて自在にルートを選択できるようなダイヤグラムがつくられていました(図5-3)。2,000人が行列に参加する加賀藩では、1日に払う金額が1,000万円ほどもかかったそうですから、いかに日数を短縮できるかも重要な課題でした。
江戸に上る最終宿場も、上尾・鴻巣・蕨・大宮・浦和・板橋などが選択可能になっています(⑤『参勤交代道中記』忠田敏男、平凡社)
図5-3 加賀藩の参勤交代ダイヤグラム
考えてみればこうしたやりくりがあることは当然なのですが、参勤交代というと、ものものしい行列ばかりが強調されて伝えられており、裏で行われているこうした臨機応変な対応などまったく表にでてはきません。しかし、全国の藩で、これだけの移動と兵站が、行軍と同様な扱いで繰り返されていたわけですから、さまざまな知恵も生まれたでしょう。
江戸時代というと、とかく柔軟性のない硬直した時代というイメージがありますが、社会環境としては、庶民だけでなく大名にしても幕府から厳しい条件が付けられ、行動が制約されていただけに、実務的には新しい工夫もさかんに行われ、PDCAが回されていたのではないかと思います。「上に政策あれば下に対策あり」の世界です。
写経生の集中した仕事ぶりと、しっかり写された経典の高度な品質、延喜式に見る緻密な数量規定、そして複雑な兵站を「見える化」して効率的に処理した江戸時代の軍学者の知恵などなど、そこに現代の私たちにつながるマネジメントの一端が垣間見られるような気がします。