6-5. ピンチは繁栄へのチャンス。
ヨネックス社長 米山 稔
バドミントンやテニスのラケット、ゴルフ道具などを作るヨネックスの米山 稔は、苦境に立つたびに、新たな道を見つけてその苦境を脱するという離れ業を演じてきた、逞しい経営者である。
米山が故郷の新潟で最初に手がけた事業は、サケマス漁業に使う木製の浮きの製造だった。しかしこの事業は、プラスチック製が登場したことであっという間に干上がってしまった。
のちになって米山は知ったのだが、木からプラスチックへの移行期のいわばワンポイントとして、米山の工夫が利用されていたのである。
この時、米山は特に新素材に関する情報の重要性を身にしみて感じたという。新素材の存在を知っていれば、こうした失敗は防げたはずだったからである。
以来、情報収集と新素材の開発は米山の経営の基盤になった。
その後、雪国でも可能な小さな商品ということでバドミントンのラケットを手がけ、やっと自社ブランドで日本一になったのもつかの間、韓国、台湾メーカーが台頭し、やがて日本では産業として成立難しいのでは、と言われる事態に陥る。
このピンチを救ったのは、新しく手掛けた金属製のラケットであった。海外ブランドとの提携の交渉で相手から一蹴され、失意のロンドンで見つけた新しい方向であった。
これがきっかけでアルミニウム製のT型ジョイントのラケットを考案、一大ヒットとなり世界一への道が開けることになる。
カーボンのテニスラケットを業界に先駆けて作り始めたのも、新素材を追いかけることから生まれたもので、そのカーボンを応用したゴルフ用品もヨネックスの主力事業に成長している。
これまで何度も逆境に立たされながらも、米山はそのつど、みごとに切り抜け、それ以前を上回る事業へと発展させてきた。米山にとっては、ピンチは飛躍へのチャンスとして生かされてきた。
「ピンチは繁栄へのチャンス」の言葉も、前述の本田宗一郎の「アイデアは苦し紛れの思いつき」に通じる。必死になって道を探ることで、方法は見つけられる。
同じように、不況の時こそチャンスであるという意見もある。来島ドックの坪内寿夫である。