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Y5-1. 横浜製鉄所――横浜につくられた日本初の洋式工場

       元治2(1865)年8月に創業した横浜製鉄所(石川口製鉄所)

(1)慶応元年につくられた近代工場
 
■技術の発展を阻害した大船建造禁止令
工場を作ったからといって、ではすぐに動かせるかといえば、そういうわけにはいかない。
時代は江戸、元治2(1865)年8月である。働くのはちょんまげを結い、腰に刀を差している人間である。旋盤を動かせということ自体が成り立たない。
横須賀製鉄所を稼働させるためには、機械加工の技術を身につけなければならない。
 
技術者・技能者の育成をめざし、横須賀製鉄所で使用する機械を製造するために建設されたのが横浜製鉄所だ。
JR根岸線石川町駅近くにあった工場は、いまは工場跡碑がある以外に当時をしのぶ物はないが、フランス語と機械加工の実習場として日本産業界に果たした役割は小さくない。
 
JR石川町駅の北口改札口を出て左(海側)に行くと、目の前に大きなマンションとスーパーマーケットがある。道を左に取れば、中華街への「西陽門」があり、ここを行けば延平門(西門)から中華街へ入る。西陽門の手前に車止めと右に花壇があるが、その花壇の中に「横浜製鉄所跡)と書かれた碑が立っている。
前を行く人はだれも目にとめないが、ここが、慶応元(1865)年8月に建設された日本初の本格的な洋式工場「横浜製鉄所」の跡地だ。
 
周辺はさま変わりしていて、いまはわずかに碑が立つだけで、当時の面影はなにもない。
中華街に急ぐ人も、すぐ横に立つ碑の存在には目もくれず、素通りする。さびしい限りだが、100年前にここに日本初の近代的な機械工場があったことはだれも想像できまい。

JR根岸線石川町駅前。右の植え込みに「横浜製鉄所跡」の碑が立つ。
中華街に行く際にぜひ読んでみよう。
「横浜製鉄所跡」の碑。いきさつも詳しく説明されている。

■江戸初期に大型船安宅丸を建造

 前項で、横須賀製鉄所の準備工場として横浜製鉄所をつくり、そこで人材育成とともに横須賀製鉄所で必要な設備を製作したとご紹介した。
その横浜製鉄所があったところだ。
 
建設に至るてんまつは以下のようだ。
 
嘉永6(1853)年6月、ペリーが巨大な蒸気船とともにやってきた。巨大な黒船の威力と高度な技術を目の当たりにした幕府は、諸外国の侵略に対抗するためには大型軍船の建造が不可欠として、同年9月には、寛永12(1635)年に武家諸法度で定めた「500石積(排水量約100トン)以上の軍船は建造してはならない」という大船建造禁止令を撤廃して、諸藩に大型の軍船の建造を許可した。
 
しかし、いかんせん造船技術がない。そこで幕府が取り組んだのが横須賀製鉄所であり、そのパイロット工場としての横浜製鉄所だった。

横浜製鉄所の所在地地図。明治16年のころの地図で、現在の地図に重ねれば、ほぼJR石川町駅から中華学校があるあたりになる(神奈川県立博物館編『横濱銅板畫-文明開化の建築』有隣堂)。

■江戸初期に大型船安宅丸を建造
日本は四方を海に囲まれている。船舶は基本的な移動手段として、秀吉の時代には、朝鮮戦役などで活躍した安宅船(あたけぶね)と呼ばれる大型帆船が作られていた。
 
奥義は木割法として船大工棟梁に相伝された。
寛永12(1635)年には、幕府は外皮を銅板で覆った竜骨の長さが125尺(38m)、幅53.6尺(16m)、推進力は2人掛りの艪が100艇という和洋折衷の軍船・安宅丸を完成させるほどになっていた。
 
幕府は、こうした技術が諸藩に渡り、軍船を建造されることに危機感をもち、以後、大型船の建造を禁止した。
そこで日本の造船技術は止まってしまったのだった。
 
禁止令の解除とともに、幕府自身も造船をめざし、河口を利用した造船所・ドックを浦賀に設置した。翌年には洋式の木造帆船の軍艦「鳳凰丸」を建造するが、軍船としてより輸送船として利用されるだけで終わった。
 
結局、浦賀造船所は、造船をあきらめて修理場として活用されることになり、万延元(1860)年に、咸臨丸が太平洋を横断する前にメンテナンスをここで受けている。
 
後にこの場所に、浦賀橋梁株式会社の造船所が建設されることになってドックも新設され、住友重工業㈱浦賀造船所へと展開してゆく。

10円切手になった荒波にもまれてアメリカ航海中の咸臨丸。日米修好通商条約
100周年を記念して1960年に発行された記念切手のモチーフにされている。

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