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読んだ気になっているが読んでいない本シリーズ4.『水滸伝』

『水滸伝』(ちくま文庫全8巻 施耐庵 駒田信二訳)を読む

 これまで、
1.『ガリヴァー旅行記
 (角川文庫ジョナサン・スウィフト著、 訳:山田 蘭)
2.『西遊記
 (岩波書店全十巻 中野美代子訳)
3.『南総里見八犬伝
  (言海書房(上/下) 丸屋おけ八訳)
と読んできて、シリーズ4作目は『水滸伝』。
 
 知名度は三国志演義には負けるが、中国古典のなかでも人気の高い水滸伝。アウトローたちが集まって為政者にたてつくという概要が人気の元なのか、話のついでに「梁山泊」などの言葉もよく出る。なんとなく知ってはいるが、読んだ記憶はあっても、詳細を問われると明確な記憶はない。抄訳本などを読んだのだろう。
 日本でいえば清水次郎長や国定忠治の拡大版と言うところか、反乱者が主人公と言う善悪が混然となったストーリーが受けるのだろう。
 梁山泊が、革命軍・反乱軍のアジトの代名詞のように語られたりもする。という興味もあって、遅ればせながら読んでおかねばと読み始めたしだい。
 
●ストーリーは3つのブロックで構成
 108人のアウトローが、梁山泊と呼ぶ湖の中の島に砦を構えて、官に抵抗する物語である。
 各出版社からいろいろと出されていて、基本は70回本、100回本、120回本の3種類が原本にもある。

 水滸伝の話は、大雑把に言えば、3つのブロックで成り立っていて、

(1) 108人のアウトローが各地から梁山泊に集まるまで(70数回)、

(2)梁山泊に集まった後、天子から犯罪を赦免されて、官軍として活躍する話
 (20回)、

(3)仲間の多くが)官軍として活躍しながら討たれて死亡するものも多く、生き残った頭領たちはどういう結末を迎えたのか、という終幕の話(20数回)。

の3つである。

 70回本は、梁山泊に集まったアウトローが、どのような経緯で梁山泊に吸い寄せられてきたのか、その経緯を紹介するもので、(1)がそれに該当し、1-70回で全108人が梁山泊に集まるところで終わる。

 100回本は、108人が集まった以降、どうなったのかを紹介するもので、上記のブロックでいえば(1)+(3)。

 120回本は(1)+(2)+(3)で、
 全訳を読みたいと思い、今回は、
『水滸伝』(ちくま文庫全8巻 施耐庵 駒田信二訳)
を読んでみた。各巻450ページを超える大部で読みでがある。
 
 話としては各地のアウトローが梁山泊に集まるまでの顛末(1)が興味深く、(2)、(3)は緊張感、ストーリー展開の面白さ、刺激にかけるきらいがある。少しだらだらという印象か。
 私はできるだけ全訳を読もうと思っていたので、120回本を読んだが、100回本でもいいかな、というのが読後の感想である。
 
●史実をネタにストーリーを縦横に広げる
 水滸伝が現在のようにまとめられたのは明(1368~)時代のはじめのころらしい。しかしこうした説話は北宋(960年-1127年)の末から南宋の初めにかけて発生し、その後、民衆の間で語り継がれて、さまざまな挿話が作られ加えられて大きな物語に発展していったようだ。
 だから、誰が作ったというよりも、民衆が生み出したものを、最終的に誰がまとめたのか、と言うことになる。ただ、全部が作り話というわけではなく、宋の時代(960-1279年)に、宋江ら36人の賊が山東で反乱(農民が蜂起)を起こして官軍を悩ましたという史実はあるらしい。

 中国は、都市が要塞化しており、支配者は城郭を作るというのではなく、都市に宮殿を作ってそこに住み、都市全体を高い壁で囲っていくつかの城門を設け要塞化した。だから、都市に入り込んで支配すればそこで君臨していた支配者を撃退したということになる。

 暴徒が都市に侵入して略奪を行うということは、支配者にとって自分のひざ元で支配が犯されるということでもある。
 
●反乱軍は賊・悪漢なのか民衆の味方(好漢)なのか?
 国全体には中央に天子(皇帝)がいて、その天子から任命された知府が地方や都市を治める。現代日本でいえば、県知事、市長である。暴徒が発生して都市を占領して税をかすめ取れば、天子は中央から軍隊を派遣して暴徒を鎮圧し、天子が任命する知府に自治を行わせ、税を徴収する。
 しかし、暴徒が官軍を跳ね返す実力があれば、その地域はしばらく暴徒に占拠されるということが起こる。

 水滸伝は、そうした暴徒が各地から集合し、大きな湖の島に梁山泊と呼ぶ砦(山塞)を築いて立てこもり、近くを通る旅人を襲ったり、法外な通行料を徴収したり、付近の町や山村に繰り出して略奪を行ったりする暴徒の集団の話である。

 この話では出身地で罠にはめられたりして反撃しやむなく殺人等を犯さざるをえなくなり、行政から締め出され行き場を失った暴徒を「好漢」と呼ぶ。略奪を行う賊・悪漢ではなく、義に篤く人民にとっては佞臣に反発する良い官僚=好漢と言う位置づけなのである。

 その理由は、虐げられて行政から悪人とされてしまった(佞臣にはめられてやむなく義を行った(退治したり、歯向かった))男たちを、犯罪者ではあるが義に篤い男と評価しているのである。

 その背景に、民衆の評価は、天子の政治が悪いのではなく、天子の政治を佞臣がねじ曲げてしまっているから佞臣が悪い、その佞臣を退治するのだから暴徒が悪いばかりではない、という発想があるようだ。
 
 それにしても、梁山泊にアウトローが吸い寄せられる経緯がどれも、ひどい。どれも意図してアウトローになったわけではなく、意地悪され、騙され、貶められた結果やむをえず、反撃・仇を討って相手を殺害する結果になり、官権から殺人者として追われるケースが多い。なかには佞臣からいやがらせを受けたり、権力をかさにきた攻撃・意地悪をされるなど、目に余るほどのいじめを受ける。これでもかと読んでいて嫌になってくるほど。

 佞臣は仕事の質を向上させること、客へのサービスを向上させること、など仕事に関心があるのではない。おのれの権力、地位にだけ興味を持っている人間と言うのはどこにもいるもので、そうした人間が秩序を乱す原因になっている。
 水滸伝の基本に地位を利用しひたすら私腹を肥やそうとする官僚がいる。時代をつないで受けているのは、いつの時代もそういう佞臣がはびこっていることに人民が共感しているということでもあるのだろうか。
 
●こんな結末、誰が予想する? 世界でも唯一無二の展開
 通読して感じるのは、結末のあいまいさ。日本のこうしたストーリーは勧善懲悪が多いが、この物語は必ずしもそうではない。アウトローは滅んでも、元凶になった佞臣はそのまま生き延びる。こういうところは、中国らしいということだろうか。どんな結末かは、ご自身でお読みください。水滸伝、こんな話だったのね。なるほど。いろいろと書きたいところだけれど、ネタバレを防ぐ意味でもやめておきます。
 もう一つ梁山泊のアウトローの責任者である宋江は、罪人となって梁山泊に逃げ込んだが、望んだのが、社会をよくしたいということではなく、アウトローたちが犯した罪を赦免されて、ふたたび官に職を得て高級官僚に取り立てられること、という意外な話の流れには驚いた。
 だからアウトロー(賊)として官とも戦ったが、戦いで官軍に勝っても、食糧や財宝は奪っても、将軍は殺害せずに「放免」する。
 理由は、官が攻撃してくるからやむなく抵抗をしているが、自分たちは官に反するわけではない、だから将軍を放免する。天子が梁山泊のメンバーの罪状を赦免しやすいような行動をとっているのである。
 梁山泊軍は官に対しての戦では連戦連勝と強いので、その強い梁山泊軍を敵とせず、味方に抱き込んで、同じような賊・反乱軍の退治に利用すればいい、と言うのが宋江と官の共通認識と言う、わけのわからない論理。これでアウトローとして筋が通るのか? わけわからん。
 佞臣からすれば、味方に取り込んで利用して最後にやっつけてしまえばいい、というそのままの展開になるのだが。なんとも不思議な結末なのである。
 
ちくま文庫を読んでいて気になったこと(1):注)がちと不親切かな、と。なれない用語が、注として説明を加えられているが、2度目の項目は「第○回、注×参照。」と記載されている。それが多用されていること。別の巻を開いて参照する必要があるが、それが面倒で、結局分からないものはあきらめてそのままスルーすることになる。面倒でも、全文を再掲するくらいのサービスが欲しかった。
もう一つ気になった人肉の扱いについて:この本でも、にくい相手に「生肝を取り出して酒の肴にしてやるゾ!」などと悪態をつくシーンがある。また、居酒屋・食堂が旅人をとらえて解体し、肉を調理したり、スープのダシにするシーンがたびたび登場する。あるいは、仲間を殺された敵きを生け捕りにして処刑し、ハラワタを切り開いてキモを取り出し、死んだ仲間の霊前に捧げて、仲間の霊を慰めるなども行ったりもしている。
 人体の解体や人肉食の習慣があったのかと考えたりもするが、吉本新喜劇の「ドタマかち割って脳みそチューチュー吸うたるで!」などのギャグもあり、同じように単なるケンカの売り言葉や、中国らしい白髪三千丈などの類の誇大形容のひとつなのでしょうか。かの国の独特な立ち位置がこんなところにも出ているのでしょうか? 私には理解が難しいところがあります。


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