001.神奈川県立歴史博物館(旧横浜正金銀行)
≪3.生糸貿易をささえた横浜の洋館・建造物001/馬車道通り≫
みなとみらい線馬車道駅を降りて馬車道に入ると、圧倒的な存在感で右に見えてくる建物が神奈川県立歴史博物館。旧横浜正金銀行本店です。横浜高速鉄道馬車道駅から1分、桜木町から歩いても、数分の距離にあります。
現在の建物は、明治13(1880)年に建てられた初代の建物が老朽化したことで、明治37(1904)年に建てられたもので、横浜正金銀行として2代目。設計は赤レンガ倉庫なども設計した妻木頼黄(よりなか)、工事総監督は遠藤於菟(おと)でした。
正面にコリント式の角柱(大オーダー)がならび、ネオバロック様式の構成は、装飾も豊かで見るものを圧倒します。
建築に5年も要したという建物は4階建てで高さ16.5メートルですがが、屋上にあるドームの塔の部分が19.2メートルあり、正面から見上げる高さは、目の高さから35メートル。圧倒されるような堂々とした威風は、この塔の存在感も大きいですね。国指定重要文化財です。
ドームの内部は、実は正八角形ではなく、角度が微妙に違っています。だから見る位置によって微妙に印象が違うのです。
北側に博物館としての入り口が増設されています。開港以来の横浜を中心とした資料が収集展示されており、資材とともに建物も興味深く見ることができます。
■生糸輸出の為替決済
明治初期、生糸輸出が増えるのに伴って、取引の際の決済をどうするかが問題になってきました。取引相手は、修好通商条約を結んだアメリカをはじめ、フランス、イタリア、イギリス、オランダなどの国から始まりましたが、次第に、良質の生糸・絹糸が得られると知られるようになり、来日する国はポルトガル、スペイン、メキシコ・・・と広がっていきました。そうした国々の商人たちにとっては、自国の通貨と円を交換できなければ、取引はできません。
何とかしてほしい、という生糸商人、外国商社の要望をうけて、生糸取引の安定化をめざし、各国の通貨と日本円を交換する為替専門の銀行として設立されたのが、横浜正金銀行でした。明治13(1880)年のことです。
資本金は300万円で、100万円は大蔵省が銀貨で出資し、残りを民間の企業が集まって出資しました。
業務は、日本商社が海外に商品を販売する際には、代金を外貨で取り立てて日本円に交換して日本商社に支払うこと、逆に外国の商品を購入した場合には、日本商社の支払う日本円を相手国の外貨に交換して売り手である外国の商社に支払うこと。これによって、輸出入の財政政策を管理することにありました。
■世界3大為替銀行の一つに成長
横浜だけでなく、以後は港が開かれるにしたがって、神戸、長崎、門司、京都・・・でも取引が行われるようになし、国内主要都市だけでなく、ロンドン、リヨン、サンフランシスコ、ハワイ、香港、上海、北京などに支店を設け、明治時代末には世界3大為替銀行の一つと言われるまでに成長しました。
関東大震災で、2階以上の内部と屋上のドームを消失してしまいましたが、金庫室のある地下の廊下が頑強に出来ていて、周辺の住民の多くのがここに避難し、仮避難所として利用されました。
その後、長い間放置されていましたが、終戦後、GHQによる財閥解体で、為替交換・取引銀行としての業務は東京銀行に受け継がれ、建物も東京銀行(現・三菱東京UFJ銀行)に受け継がれていました。
昭和42(1967)年に、関東大震災で焼失した屋上のドームを含めて修復・増築され、翌43年から県立歴史博物館として使われるようになっています。
横浜では、港から見える3つの塔として、キング(県庁舎)、クイーン(横浜税関庁舎)、ジャック(横浜市開港記念館)の3つが知られていますが、この県立歴史博物館の塔は「エースの塔」という名がつけられました。3塔とは離れていて目立ちませんが、「横浜の4塔」と呼ばれてもいいような風格を持っています。
●所在地:横浜市中区南仲通5-60
Tel.045-201-0926 / Fax.045-201-7364