Y1-4. 140年使い続けられる遺産--横須賀製鉄所がつくられた背景
■140年使い続けられる遺産
100年名家、100年老舗という言い方がある。
長く持続することのすごさをたたえた言い方だが、スマホが3年で古くなる時代に、産業施設で150年を超えて、使い続けられるというのは驚きだ。
横須賀港にあるドライドックがつくられたのは1871(明治4)年。まだ多くの庶民が髷を結っている時代につくられたドックが、現役ドックとして船の修理に使われているのだ。この地震の多い国である。信じられるだろうか?
なぜここにドライドックが作られたのか、少し歴史をひも解いてみよう。
1853年ペリーが4隻の黒船で来航し、幕府に開国を迫った。幕府は翌年開国するが、その時に圧倒的な軍事力の差を認識し、兵力増強の必要性を悟る。
士族は開国反対をやかましく叫び、攘夷(外国人をやっつけろ)を唱えるが、ひとたび戦火を交えれば敗戦は必須である。刀や火縄銃で大砲に勝てるわけがない。
軍備の増強こそ島国日本を自立させるために不可欠だったのである。
ペリーの来航で、約220年間継続していた大船の建造禁止令を幕府は解くが、独自に大型船を建造する力があるわけではなく、結局、欧米諸国から購入するしかなかった。
1853年以来、幕府や各藩が欧州各国から購入した大型船は94隻。そのために500万ドル近くを費やした。
しかし、あわてて購入したために、満足にチェックもせず、ボロ船を急きょ繕ったものなど悪質なものをつかまされることもあった。
そのため、各藩では購入したはいいけれど、満足に動かなかったり、十分な操船・修理技術もないために持て余したり、というありさまだった。
そんな状況を見かねた小栗上野介は、勘定奉行につくと、国内で技術を育成し、軍艦を独自に建造・修理するという方針を立てる。とはいえ技術はどこにもない。
そこで指導を仰いだのがフランス公使レオン・ロッシュだった。
フランスの軍港ツーロンを模して日本に造船所と軍港を作ってはどうか、との提案を受けて、候補地として選ばれたのが横須賀だった。
■ペリーがよこした降伏用の白旗
造船所・軍港建設計画は、幕府が新政府に代わっても、殖産興業・富国強兵策として継続される。
しかし、なぜ幕府はそんなに軍拡に急いだのだろうか、理由の一つに、1853年に来航したペリーの仕打ちがあった。
ペリーは、幕府との交渉に際して、開国を勧める米大統領フィルモアの親書とともに、白旗2枚と個人的な書簡を渡しているのだが、その書簡には、
「通商を願い出ているが、もし不承知ならば、国法に従って防戦せよ。必勝は我らにあり、和睦を願うならこの白旗を押し立てるべし。炮を止め艦を退て和睦する」
と記されていたという。
開国せよ、さもなくば攻撃するぞ、という脅しである。
無茶な話だが、当時は、こうした列強の無理がまかり通った。
時代は、艦船の大型化がすすみ、欧米諸国は競うようにアジア、アフリカへ進出して、領土獲得と貿易をめざした。
当時、欧米諸国が決めた国際法「万国公法」によれば、世界の国は3つのカテゴリーに分けられていた。
①「文明国」:欧米諸国。独立した自治権をもち、征服・割譲・開拓などで新たな領土を獲得し、相互に承認することで所有権を確定する権利を有する。
②「半文明国」:日本などアジア諸国。部分的には承認されるが、不平等条約が「文明国」の主導で結ばれ、拒む場合には武力によって受け入れさせることができる。
③「未開地」:アフリカ諸国など。「無主の地」(所有者のない土地)とされ、「文明国」が「先占の原則」でそこに植民地を自由に設定できる。
とされていたのである。19世紀後半は、欧米の列強が我がもの顔で七つの海を牛耳っていたのである。
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