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Y5-2-1. 横浜製鉄所が残した足跡(1)--洋式機械のイロハを伝授

         横浜製鉄所。中央の橋が見える先が製鉄所で、手前の町並みは元町。
                                           (『日仏文化交流写真集第1集』駿河台出版社)

■横浜製鉄所の誕生
大型船の解禁とともに、幕府だけでなく諸藩も同じように軍船づくりを始め、水戸藩は嘉永6(1853)年江戸隅田川の河口に石川島造船所(後のIHI)を、薩摩藩は翌年には桜島に桜島造船所を設け、加賀藩は七尾造船所を作り、軍船などの建造を試みた。
 
佐賀・鍋島藩もまた、藩内の三重津に造船所を設けることを目指し、オランダに蒸気船建造用の機械類を発注し、オランダ人から蒸気船作りの指導を受けて準備を進めていたが、造船所を作るには莫大な費用が必要なことが分かり、自力での建造をあきらめて、購入した設備類を幕府に献上してしまった。
 
この鍋島藩から献上された設備を活かして造船所づくりを考えていた時の勘定奉行・小栗上野介がフランス公使のロッシュに相談。
 
フランス軍艦のセミラミス号の乗組員が鍋島藩からの献上品を視察。これらの機械類では馬力が小さくて大型の軍船の建造には向かないことが判明。
横浜近郊で小型船の修理に活用し、横須賀製鉄所のための機械づくりを兼ねて技術を習得した方が良いとのアドバイスを受けて、横浜に艦船修理施設を作ることになった。
 
横浜製鉄所設置の目的は、横須賀製鉄所設立原案によれば、以下のようになっている。
 
「横須賀製鉄所設立に先立ち、一の製作所を横浜にもうけ、現所有の工作機械を据え付け、もって艦船修理の工事を起こし、あわせて本邦人をして西式工業を習得せしむるにあり、このために仏国海軍士官を雇い入れ、その事業を担当せしむる。・・・」
 
そこで、横浜の本村に工場を建設、鍋島藩から献上された設備の他に、咸臨丸で渡った遣米使節団がアメリカで購入してきた工作機械などを持ち込んで据え付けた。
 
同時に、フランス人の技術者を採用し、横須賀製鉄所のための準備を兼ねたパイロット工場として、フランス語の通訳や工業技術の実習指導を行う目的工場を整備した。

■機械工作のイロハを伝授
工場は、広さ約4,300坪、変形四角形の土地で、鋳造工場、錬鉄工場、製缶工場、旋盤工場、木型や木工用旋盤、模型工場・・・など16棟をもつ、最新鋭の工場だった。
 
首長にフランス船セミラミス乗員のドローテル海軍技官が就任。横浜製鉄所に雇い入れたフランス人技術者は12名で、専門は、錬鉄、鋳造、製缶、木型、鑢鑿(りょろ:ヤスリ・ノミ)などで、横浜製鉄所では、輸入した鉄材を利用して、横須賀製鉄所で使用するヤスリやノミなどの工具類から、小型の蒸気機関などを製作。
そのプロセスで機械加工技術のイロハから伝授し、日本人職工を育成した。
 
横浜製鉄所の役割は、横須賀製鉄所を成功させるためのパイロット工場であり、横須賀工場が立ち上がって稼働を始めればその役割は終わる。
 
とはいえ、1865年当時、本格的な設備を備えた洋式工場としては、幕府が安政4(1857)年にオランダ人技術者を招いて長崎に作った造船施設「長崎鎔鉄所」があるだけで、江戸付近には皆無だった。
 
水戸藩が隅田川の河口に作った石川島造船所にしても、造船に必要な設備がそろっているわけではなく、その運営には苦労をしていた。
 
そこに、本格的な設備を備え、しかも最先端の技術を持った技術者が指導する工場ができたため、注文は殺到した。
船舶修理だけでなく、機械加工を行う設備と技術があったために、当初のねらいであった横須賀製鉄所用の工具や設備を作る一方、多くの依頼に応じて、さまざまなものを製作した。

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