037.ホテル ニューグランド本館
≪3.生糸貿易をささえた横浜の洋館・建造物033/山下地区周辺≫
*山下公園の緑に映えて美しいホテルニューグランド。
山下公園の前に建つわが国有数のクラシックホテル。横浜のもう一つの顔といってもいいでしょう。できたのは昭和2(1927)年です。横浜には開港以来、要人を泊める高級ホテルがあり、このホテルの前にも、当時の横浜を代表するホテルとしてグランドホテルがありました。
ところが。このホテルが関東大震災を受けて倒壊してしまいました。その後、簡易ホテルが作られたのですが、テントホテルと呼ばれるような状態で、とても要人の用に供するようなものではありませんでした。
こうした中で、横浜にふさわしい格調高いホテルが欲しいとの声を受けて、神奈川県や横浜市は、地元の政財界からも出資を募って、新しいホテル建設の計画をスタートします。横浜商工会議所が中心になって建設されることになり、新しいホテルは、グランドホテルの名を冠して「ホテル ニューグランド」と名付けられました。
平成4(1992)年には横浜市認定歴史的建造物の指定を受け、平成19(2007)年には生糸の輸出に関連して経済産業省の近代化産業遺産の認定を受けています。
鉄骨鉄筋コンクリート造5階建、設計は、国立博物館や日比谷の第一生命館などを手掛ける一方、北品川の原美術館や銀座和光などの作品も残している渡辺仁です。
■マッカーサーと大佛次郎、そして「天狗の間」
以来90年、ホテル ニューグランドは、横浜だけでなく日本を代表するヨーロッパスタイルの正統派ホテルとして、横浜の歴史と共に歩んできました。このホテルがいかに高い評価を得ているかは、マッカーサーが戦後に来日した際、コーンパイプを手に厚木に降りた後、このホテルに直行し、日本占領の最初の3日間をここで過ごしたという一時からも想像できます。
種を明かせば、マッカーサーは2度目の結婚相手であるジーン婦人との新婚旅行で、このホテルに宿をとったという記録があり、それもあってここを利用したのではないかといわれています。第二次大戦で、ここが空襲にあわなかったのは、マッカーサーが意図的に爆撃対象から外したのではないかと、書いたのはこうしたことがあったためです。真相は定かではありません。
厚木から直行してマッカーサーが利用したのは港を正面にした318号室でした。鞍馬天狗、パリ燃ゆ、などの作品を残した作家の大佛次郎が、ここに滞在して執筆したこともよく知られていますが、彼の部屋は315室。どちらも港を正面に見るこのホテル看板の部屋です。いま、大佛次郎の愛用した315号室は天狗の間と名づけられて、予約すればだれでも宿泊できます。港の見える公園にある大佛次郎記念館見学とともに、一泊してはいかがでしょうか?
もともとあったグランドホテルは、居留地20番地でしたが、ここは居留地10番地、いまでは山下町10番地。少し大さん橋の方に近づいたことになります。
■フランス料理の出発点
創業した当時発行された『建築雑誌』昭和3年2月号によると、敷地は1,099.718坪、建坪552.482坪、延坪2,268.452坪。
と紹介されています。
総体として意匠は落ち着いたアール・デコ調で、1階、2階、3・4階以上の3つの構造が異なる3層構成になっています。1階を地階として天井を低く、2階の天井を高くして主階としています。3階以上が客室。1階正面を入ると、2階への階段があり、自然と2階に導かれるような構造になっています。そのため、2階の装飾に見るものが多く、和洋を融合した独特の雰囲気を奏でています。
日本の洋食をリードしてきたホテル料理人の人脈には、東の帝国ホテル系とニューグランド系、西のオリエンタル系などがあります。フランス料理の料理人、ボーイも多くをここから輩出しており、昭和60(1985)年くらいまではニューグランド出身ということが一つのステータスになっていました。
平成3(1991)年には、地上18階・地下5階のニューグランドタワー棟が完成し、バー・シーガーディアンも、高層階に移動、港の眺望が素晴らしくなりました。
長年の経験で磨きあげられた宝石のように輝くホテル、一つの都市の歴史を物語るホテルとして、貴重な存在です。
●所在地:横浜市中区山下町 10番地
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