自己破壊と正常な思考
いよいよこの事実を認めなくてはならない時が来た。
認めて、前に進んだ方がいいと思い、決心をした。
27年間生きてきて薄々感じて来てはいたのだが、今の今までプライドが邪魔をしてなかなか認める気にはならなかった。
認めよう。私は知能が低い。
私の身の回りに起こっている様々な事象は、この事実を認めることでかなり説明が出来る。
それらの事象(自傷と掛けている訳ではないよ。クックック)について書き記すことで私は自分の性格、性質、思考回路を改めて再認識することにした。
そうすることで、この先の人生がより良いものになると確信したからだ。
つらつらとここで述べていく前に先にここで注意喚起をしておきたい。
もし、自分のことを「知能が高い」と思っている方はこの文章を読むことをおすすめしない。
なぜなら、私の思考を垣間見ることでかえって生活に支障をきたす可能性があるからだ。
普段、自分が特に何の苦労もなく何も考えず、当たり前のように出来ていることを他人から「実はそれはとても大変なことなんだ!」
なんて言われると、「あれ?これってそんなに難しいことだったんだ。」と今まで普通に出来ていたことに対する認識が変化してしまい、
前よりやりづらくなってしまうということは十分ありえる話だ。
呼吸を意識してやると難しく感じるように。
私の思考に感化され、
今まで無意識に行うことが出来たものが有意識で行わなければならなくなってしまったとなれば生活に支障をきたすかもしれない。
諸君らにそうなって欲しくはないのだ。
自律が出来ない
さて、勇気ある者たちよ。
続きの話を聞かせてあげよう。
ああ、先に言っておくと自分の知能が低いと思ってるからといって悲観する必要はないよ。
知能が高すぎるがゆえに一周回って、知能が低くなってしまってる人もいるだろうしさ。そう思えばなんかかっこいいだろう?
そうでなくたって知恵を使い、工夫をすれば、生きていく分にはなんとかなる。
あと、ついでに言うと知能が低いというのは悪いことではない。
良い悪いなどないのだ。と私は思う。
知能が低いという特性を持って生まれ。キャラ選択画面では、自分しか選べない。
なら、自分の事だけ考えてればいい。
他人と知性を比べるからおかしなことになる。
言っておくが、自分以外の人間なんてみんなCPUだ。
私は小さい頃からほんとうに自律(一社会人として"自立"はしているつもりだがね。ククク)が苦手だ。
自律というのは読んで字のごとし自分を律するということだ。
そして、自分を律するとは無理やり自分に嫌なことをさせるということだ。
しかし、私はそれが苦手なので
自分がやらなければいけないこと。もしくは、やらなければいけないと思っていることをすぐに後回しにしてしまうし、もしくは、やらないまま終わる。
では逆に、なぜ自分を律することの人間がいるのだろうか。
それは、理性が働いているからに違いない。
理性を働かせると、後回しにしたって結局は後でやらなきゃいけなくなるのだから今やればいいと考えられるし、やらないまま終われば大変な目に遭うと分かるはずだ。
例えば、夏休みの宿題だ。説明せずともなんとなく分かるだろう。
私はいざというときにいまいち理性が働かない。
知能が低いからなのではと思う。
言っておくと、夏休みの宿題を完璧にこなしたという記憶はない。
そして、厄介なことに自律から逃げた人間は逃げ癖が付く。
水は低き所に流れるというか、一度覚えた蜜の味を忘れることは出来ないというかなんというか、とにかく、自律は失敗すればするほど、失敗しやすくなるという性質を持つ。
外部からの強制力でもない限りはこの負のスパイラルから逃れる術はない。
仮に、怠惰な自分に嫌気がさして一念発起出来たとしても、
過去の圧倒的な量の失敗の積み重ねの前では、気合もすぐに消沈してしまって長続きしない。
人間は過去の経験を現在で縫い合わせて、未来を作っていくものだ。
人間でなくとも少なくても私はそうだ。
過去に囚われていると言ってもいい。
自律に失敗してきたという歴史が、現在の私が自律できない一番の要因であり、この先もそれが続いていくのだ。
頭では分かってはいても体が言うことを聞かないのは体が無意識の中で、過去の経験から学習しているから、ということなんだろう。
とはいえ、自律できないと辛い
自律ができないと、まず生活習慣が乱れる。
生活習慣の乱れが続くとそれは生活習慣病になる。
病って文字が付くとなんだか仰々しいけど、そうやって大げさに扱ってもいいほどに、生活習慣が乱れるというのは身体的、精神的に辛いものだ。
不健康になる。肌が荒れる。気持ちがいつも鬱々としてくる。
生活習慣が乱れていいことなんか何もない。
規則正しい生活した方が楽だし、効率的なことは分かっている。
ただ、体が言うことを聞かない。
八方塞がりな気もしてくるね。でも、この先一生、自律が出来ないからって生活習慣が乱れっぱなしなのも嫌なので、考えてみた。
まず、自分の人格は一つではないということを分析し、理解を試みた。
大雑把に分けると自分の人格は理性的な自分。そして、本能に従う野性的な自分。そして、その二つの人格のギャップに悶え苦しむ自分と3人いる。
どうもやっぱりこの一つの体に一つの人格はありえないんだよね。
時間帯や、居る場所によって考え方が違いすぎるんだもの。
みんな全部同じ自分だと思うと矛盾が多すぎて意味不明になって辛くなってくる。だから、僕は3人いるんだ。
ちなみにこの文章を書いてるのは視聴者の想像通り、理性的な自分だ。
文章を書くっていうことはとても知的好奇心をくすぐられるし、なんだかとってもクリエイティブなことをしている気がしてくる。
文章の構成を考えたり、言い回しを考えることは未来の自分にとってもプラスになるような気もするからポジティブになれる。
理性的な自分でいるときが僕は一番好きだ。
次に、本能に従う野性的な自分について説明する。
彼に自分の体の主導権を渡し続けると大変なことになる。
ずーっとゲームしてるか寝てることになる。
ご飯だってジャンクフードや甘い物を好む。
嫌なことはしないし、思ったまま、感情のままに動く。
知能が最も低い状態になり、まともな思考は期待できない。
そして、そのツケを払わせられるのは僕なのだから堪らない。
早くいなくなって欲しい。
脳は常に理性的な僕が支配していることが、総合的に、又は結果的に効率的で楽なんだ。
三人目は二つの人格のギャップの悶え苦しむ自分だ。
三人目がいる時間は少ないけど、主に野性的な自分がしてしまったことに対する自己嫌悪が彼の役割だ。
「あーなんでこんなことしちゃったんだろう。」といつも嘆いている。
最近は自己受容を覚えて多少嘆く量も減ったけど、
積み上げるのには時間がかかって、崩すのは一瞬ってことを考えるとやっぱりきついんだろうね。
彼はいつも鬱々としている。
先にタイトルを考えてから文章を書いてるんだけど
さて、変なロールプレイはここで一旦やめとする。
本当は3人の人格なんてない。
そういうふうに考えるのもありかなって話だ。
タイトルを「自己破壊と正常な思考」としたんだけど、いっぱいの話したいことを書いてたらあんまりタイトルにそぐわなくなった。
いま改めて、タイトルを考えるとなんだろう。
「当たり前のことが出来ないダメ人間」とか「3人の人格(笑)」とかだろうか。
本当は無限にこの楽しい文章を書いていたいのだが、1日で長くて3、4時間くらいで書こうとしているのでそろそろ締めに入らなくてはいけない。
本来のタイトルに沿った伝えたいことと、この文章を書こうと思った経緯をサラッと書く。
自己破壊って言うのは精神的破壊と、身体的破壊だ。
精神的破壊ってのは後悔とか自己嫌悪とか、死に方を考えたりとかだ。(吊るか焚くか。)
身体的破壊は暴飲暴食とか、過眠とか、ハサミで自分の首を掻っ切ったりすることだ。(酔った時に一度だけやった。結局死んでないからごっこ遊びだ。精神的苦痛より肉体的苦痛の方が上回るらしい。)
正常な思考というのは、朝は決まった時間に起きて、夜は早めに寝て、バランスの取れた食事を心がけたり、適度に運動したり、勉強したりすることだ。あとは金稼ぐ手段考えたりとか。
経緯は前の記事にコメント貰って嬉しかったのと、
今日の仕事中に、手元にあったメモ帳に今日書いた話の要点をパーッと書き出したからだ。汚い文字で書いた。メモ帳を家に持って帰ってくるはずが職場に置いてきた。
終わりに
色々書いたが、私はポジティブだ。
知能が低いということを認め、認めたうえで、より健全に、より楽しく、より楽に生きていきたいということなのだ。
気持ちが沈んだり、ネガティブになることもあるが、それはそれとして受け入れて、最終的にはポジティブになっていきたい。
そして、早くこの体から感情と野性的な自分が消えるように日々精進していきたい。
私は今日書いたこの文章達が好きだ。
知能が低くても文章を好きなように書けるらしい。これはありがたい。