私の読書遍歴① ‐110
○小学生のころを振り返る
弟子:私は、今は年間に100冊ぐらい本を読んでいる。昔は、そんなに読書が好きでなかったけど、今は好きでたまらない。少し、過去を振り返りながら、師匠と対話して、どうだったのか、会話してみよう。
師匠:ほう、聞こうか。
弟子:師匠、今日は私の読書の原点について話したいんです。小学生の頃は家にマンガの本も含めて、いろいろと本がありました。私の記憶では、最初に文章の本を読んだのは、「二宮金次郎」の本でしたね。
師匠:ほう、二宮金次郎か。勤勉の象徴とも言われる人だな。それが最初に君の手に取った「文章」というのも興味深いな。で、その後はどうしたんだ?
弟子:ええ、その本を読んだあとは、あまり記憶がない。あまり読まなかったのか。それ以降はあまり読書をしなくなった気がします。家にはマンガもたくさんあり、手塚治虫の漫画をよく読んでいました。それも隠れながら。
師匠:隠れながら、何かあったのか。
弟子:父親が漫画を読むと頭が悪くなる、というような人でしたので、娯楽が限られていました。TVゲームも友だちの家でしていても怒られていました。
師匠:なるほどな。父親の考え方は、娯楽よりも勉学を重んじるタイプだったのだろう。しかし、娯楽が「ない」ことが読書からも遠ざかる一因になったかもしれん。人は心が弛む時間があってこそ、学びへの意欲も生まれるものだからな。
弟子:そういう考え方もあるんですね。野球とかしていて、家に帰ったら疲れて、テレビを見て寝るでしたかね。とはいえ、野球のルールブックとか、選手名鑑とか買ってもらい、食い入るように見ていました。それでルールを覚えました。
師匠:好きな本を読むのが、読書がはかどる秘訣だしな。「楽しい」という感覚が育つのではないか。お前が言ったように、漫画やゲームを通じた「楽しみ」が禁じられていたことで、余計に熱中したのかもな。子どものころは、ひたすら、「ひまだー」と言ってた記憶も私にもある。
弟子:師匠もですか。でも、今になって思うんです。あの頃は本が「何かを教えてくれるもの」としか思えていなかったのでは。最近は、物語やエッセイが「ただ楽しむもの」にもなり得るんだと気づいてきました。
師匠:「教え」を求めるのではなく、本は、時には息抜きであり、時には旅先であり、時には友でもある。読書とは「疲れるもの」ではなく「自由になるもの」と言い換えてもいいのではないかな。
弟子:なるほど…。確かに、今は「これを読んで楽しみたい」と思って本を手に取ることが増えました。義務感よりも好奇心で読んでいるから、昔ほど疲れないんです。
師匠:それでいい。本が楽しくなれば、自然と自分の世界も広がる。それも無限大だと私は思っている。旅をした末に、また一つ戻ってくる場所があったということだな。見城徹は、読書という荒野で、読書で学べることと比べたら、一人の人間が経験することなど高が知れている、とも言っておるしな。
読書で学べることと比べたら、一人の人間が一生で経験することなど高が知れている。読書をすることは、実生活では経験できない「別の世界」の経験をし、他者への想像力を磨くことを意味する。
弟子:読書ってそういうものなんですね…。色々禁止されていても、決してわるいものじゃなかったんだ。
師匠:お前の過去も、それを語る時間も、すべてが読書という旅の一部だ。これからも好きに、本の世界を歩いていけ。読書の道は終わりがないからな。
弟子:そして、師匠、いい話の途中ですが、読書遍歴の話を続けます。
師匠:おうすまん。私の読書語りが入ってしまったな。
弟子:そんな中でも、漫画がどうしても読みたかったんです。でも父親の目を気にして、勉強のためだと言える理由を考えて買ったのが、歴史の伝記です。「これは勉強だ」と。これなら父親にも認めてもらえる気がして。
師匠:ほう、なかなかの知恵者だな。言い訳ではなく、工夫と呼ぶべきだろう。それでどんな伝記を読んだんだ?
弟子:色々読みましたね。聖徳太子や、卑弥呼、源義経、豊臣秀吉や織田信長。彼ら彼女らの話は実に痛快で、まるで物語のようでしたね。それからガリレオ・ガリレイやノーベル、キュリー夫人、ナイチンゲール、ライト兄弟……。気がつけばかなりの数の伝記を読んでいたと思います。
師匠:歴史の偉人たちの生き様か。それは当時のお前にとって、漫画以上に面白かったのだろうな。いわゆる、なし得た人がどのように取組んだかを書いてくれているからな。
弟子:織田信長の「人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻のごとくなり」という、明智光秀に討たれるシーンの唄を親に何度も聞かせたと思うし、ガリレオ・ガリレイの「それでも地球は回っている」という言葉は、すきでしたね。
豊臣秀吉は特に好きでしたね。貧しいところから知恵と努力で天下を取った姿が、子ども心にすごく痛快でした。草履を腹で温める、ですかね。すごいなと思いました。
師匠:うむ、秀吉はまさに努力と機転の人だ。伝記の中で、彼らはただ「偉人」として描かれるのではなく、一人の人間としての魅力が光る。だからこそ、読んでいて胸が躍るのだろう。そんな読書が今、役に立っていると感じるのはなぜだ?
弟子:伝記で学んだのは、いろんな人が、いろんな障害を乗り越えて、とにかく前に進もうとする、少しでも良くしようとしている、という姿が好きなのだと思っています。今、語っていて、そう思わされました。師匠と話ができて良かったです。そして、伝記を読んでおいて良かったと思います。
師匠:それこそが読書の真髄だな。偉人たちの知恵や生き様が、自分の中に根付く。それは知識の詰め込みではなく、思考の支えになっている証拠だ。山口周も言っておる。歴史とは、これをやるぞ、と合図をしてやっていくものではない。何かおかしいと感じた人が取り組んだものだと、そう言うことも感じたのではないかな。
歴史について「ある日、神様がやってきて、鐘をガランガラン鳴らしながら『今日から新しい時代が始まりますよ』というように転換するものではない」と語っています。なんとはなしに「このままでは何かがおかしい」と感じて行動をあらためる人が、少しずつ増えていくこと歴史というのは転換していくものなのです。
弟子:そうなんです。だから自分の子どもたちにもたくさん本を読んでほしかったんですが、そううまくはいきませんでした。やっぱり、親の押し付けではダメなんですよね。
師匠:確かにな。子どもは親が思うようには育たないものだ。しかし、お前が子どもたちに「読んでほしい」と願った背景には、お前自身が本から得た楽しさや支えがある。いつかふと手に取る日が来るかもしれん。
弟子:そうですね。今は無理に読ませるのではなく、自分が本を楽しんでいる姿を見せることで、何か感じてもらえればいいかなと思っています。
師匠:それでいい。読書は自由な旅だ。お前が楽しんで読んでいれば、その背中が何よりの教科書になる。焦ることはないさ。お前が本と歩んできたように、子どもたちにも彼らなりの「本との出会い」がきっと訪れる。
弟子:そうですね。焦らず、ゆっくり見守ります。自分自身もまだまだ読んでいきたいので、子どもたちと一緒に本の世界を旅しているつもりでいます。
師匠:うむ、それが何より素晴らしいことだ。お前が今、こうして伝記の話を語っているように、いつか子どもたちも、自分の読んだ本を語りだす日が来るだろう。その日を楽しみにしていればいい。
弟子:師匠まだ話は続くのですが、続きは次回で。まだ、小学校卒業していません・・・
師匠:すまん。また、自分の読書愛を語ってしまった。