稀勢の里と武蔵山
平29初に初土俵から15年、新入幕から12年で待望の横綱昇進を果たした稀勢の里。横綱までの成績としては異例の長期在位だった。しかし新横綱早々の大胸筋の怪我でほぼ力士生命を絶たれた。約2年の在位とはいえ皆勤2場所、勝率5割という大関時代から急転直下の成績。横綱として全力を出したのはわずか12日だろう。
稀勢の里の土俵人生に不思議と似た横綱がいる。33代横綱の武蔵山。
肘のけがを抱えながらも昭和11春に横綱昇進。しかしそれを境にけがが悪化。在位8場所、皆勤1場所で引退と無残な横綱人生だった。武蔵山とはスピード出世、人気力士、大関時代までは強豪に値する成績だったのも共通。
2人とも昇進の好機を逃したことが大きい。稀勢の里の場合大関在位5年でほぼ2桁の成績。あと一歩で優勝の所までいきながら白鵬に阻まれた。10年ぶりの日本人優勝も琴奨菊が先行し、その後奮起したか史上初の優勝ゼロでの年間最多勝→優勝も漸く、待ちくたびれたといった感が強かった。
武蔵山の場合は全盛期が昭和5~7年頃だろう。昭和6年3月に優勝同点、翌昭和6夏には玉錦を破っての優勝が絶頂期。しかしそれ以前の昭和5年夏より勝ち越しを続けながらも天竜が関脇に留まり小結に留め置かれたのは後の不運を暗示させる番付運の悪さだった。結局関脇を経験せずに漸く大関となった昭和7春以降、大関としては及第だが横綱には物足りない成績が続く。昭和6年10月に沖ツ海戦で右ひじにぶちかましを受け大けがを負う。これが最後まで尾を引いた。その沖ツ海はライバルとなりえただろうがフグ毒により亡くなる。このあたりも武蔵山に暗い影を落とす。
稀勢の里は平18名に新小結。以降5度の勝ち越しながら関脇昇進できず6回目の勝ち越しで関脇に。小結据え置きが長いという点も同じである。稀勢の里の場合、大関までに関脇9場所、小結12場所経験している。横綱経験者では異例の多さである。このあたりスムーズと行かなかった。番付面での不遇は後の力士人生に影を落とすことが多い。
武蔵山は昭和10春に8勝2敗1分、夏に9勝2敗とこれまでと比べ取り立てて好成績ではないが、様々な策謀もあってか横綱昇進を果たす。人気面も後押ししただろうが稀勢の里の場合も年間最多勝+優勝1回という前例のない評価が支えとなり昇進した。いずれも協会の営業政策が大きかったと愚考してしまう。両者とも安定性も一つの評価として買われたのだろうが昇進早々致命的な怪我により再起を絶たれたのは皮肉。
稀勢の里はこれまで大怪我自体なくケガとの向き合い方も失敗だった。ちなみに武蔵山の昇進に後押しされた男女ノ川も同じく取り立てて好成績ではなかったが横綱に昇進した。両者とも横綱昇進は全盛期を過ぎていたことが共通する。稀勢の里も結果的にそうなった。その後茨城出身の横綱は稀勢の里まで80年以上なかった。武蔵山・稀勢の里には不思議と奇縁が多い。
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