読売大相撲38年3月号を読むと、新大関豊山特集。全頁の3分の1ほどは豊山に関するものである。それだけの期待があったことが伺える。
豊山に望むこととして各界諸氏が提言しているがその中で時津風理事長(双葉山)のものがなかなか興味深い。(一部略)
双葉山が玉椿(当時白玉親方)についていたというのは初めて聞くこと。双葉山は昭和2年3月初土俵で、玉椿は昭和3年9月に44歳で亡くなっているため、序ノ口から序二段時代のわずかな期間だろう。新弟子時代の指導は栃錦の例など後年になって重石となるものだが、双葉山の場合も玉椿から相撲の基礎をいろいろと学んだかもしれない。大横綱双葉山を形成する一つの要素となってるか。
豊山への期待を見ると横綱はほぼ間違いなしといった論評が多く「新大関豊山のすべて」には
玉の海はさらに踏み込んで
とその先まで論じている。
これほどどの識者からも横綱確実と言われた力士はかつていたのか。それが横綱が「転がり込んでくる」どころか優勝さえ「転がり込んでこなかった」のは九仞の功を一簣に欠くだったか桂馬の高上りだったのか。優勝決定戦すら経験なく終わってしまったのはあまりにも竜頭蛇尾だった。
しかし引退後1年程で理事となり、紆余曲折の中で理事長となり協会を背負って立つだけは実現したのは皮肉。初優勝ばかりの昨今の相撲界と顧みるに相撲史は難しいもの。