立行司のこと
木村庄之助は現在38代。9年間空位であった。
定年制導入以降急速に代数が増えた庄之助。昭和34年までは22代だった。初代から3代までは実在しないか、あるいは庄之助襲名の事実のない行司で4代目が史実上初代である。享保年間に襲名といわれる。以後200年ほどで22代まで継承された。1人が10年は襲名していた計算となる。定年制実施以後は56年で15代と激増。平均4年だが27代は13年、32代は1場所と両極端。名行司ながら短期で土俵を去るケースも増えている。
立行司という地位自体、明治期まで定義が曖昧だったようで式守伊之助が首席であったり、木村瀬平のままで立行司免許が下りるなど、必ずしも庄之助、伊之助が首席、次席という定義ではなかった。それぞれ木村家、式守家のトップという意識が根強かったのだろう。
伊之助を経て庄之助になるのは明治45年襲名の17代が初である。そもそも庄之助がトップというのは明治22年の相撲協会設立あたりに確立されたようだ。当時は階級を房色で呼ぶ習慣があり、紫房、紫白と呼ぶのが通例だったらしい。式守家の場合伊之助で終わるのが慣習だったようでこのあたり家制度の影響がみられる。昭和13年に引退の16代伊之助も式守のトップまで昇進したことが引退理由だったようだ。まだまだ謎が多い。