長寿の大関
現在元大関の豊山が86歳。今年の8月で87歳を迎える。昨年の豊山の断髪式にも出席するなど高齢ながら矍鑠としている。北の富士より元気ではないか。
元横綱の長寿記録というのは初代梅ヶ谷(1845-1928)の83歳。これはそれなりに知られていることで近年栃ノ海と若乃花が迫ったものの記録更新とならなかった。横綱が短命な事も良く知られ、平均55歳とも言われる。
一例を見ると、双葉山が56歳、羽黒山54歳、東富士51歳、照国58歳、前田山57歳、千代の山51歳、吉葉山57歳、朝潮58歳、柏戸58歳といったところ。安芸ノ海64歳、男女ノ川67歳、鏡里80歳、若乃花82歳、栃ノ海82歳というのもあるが60代でも異常な長寿にみえるほどである。
初代梅ヶ谷の長寿ぶりは江戸時代生まれ・明治初期の力士としても傑出しており、横綱として在位した明治18春の三役力士の没年例を見ると、西ノ海53歳、大達50歳、大鳴門54歳、高見山63歳、剣山58歳といったところ。大正期まで存命すらほぼいない。平幕にのち大関の一ノ矢(66歳)がいるがこれでも長寿の部類であった。
横綱はともかく大関の長寿記録はあまり知られていない。調査したところ豊山以前の最長寿は昭和36年に82歳で亡くなった朝潮のようだ。
朝潮は明治12年に愛媛で生まれ、若い頃より怪力。相撲入りを勧められたが父は反対。父が亡くなったことで明治34年に入門。出世は早く明治40年に入幕した。3場所目に小結と有望であった。一時低迷するも大正2年頃より上り坂となり、大正3夏に太刀山と預かりの相撲が後押しとなり35歳で大関昇進した。
大関としては年齢もあってかこれといった実績もなく、4年務め大正8夏に引退。大関昇進時より高砂を二枚鑑札で襲名していた。「近世大関物語」には明治45年の再起から大正3年の関脇までが全盛としている。
右四つ下手投げを得意とし右差し五万石と評された。梅ヶ谷太刀山にもこの手で粘り引き分けただけにすごみがある。
引退後は太刀山が廃業し弟子が移籍したのもあってか順調で、男女ノ川や前田山を育てた。協会でも取締を昭和2年より一時辞任もありながら、昭和17年まで6期13年程務め、こちらは横綱格であった。
この朝潮は豪傑で知られ博打狂。なんぼのもんじゃいと金庫を抱え博打をしていたとか。 タニマチから贈られた化粧回しや紋付も質に流して涼しい顔をしていたという。博打を注意され逆に巡業を放棄しようとして幹部が取りなしに来たこともあるとか。
親方となってからも相変わらずで、弟子がしくじるとすぐにクビだ!と追い出された。朝クビになって昼頃戻るとすっかり忘れていたという。
イノシシ鍋とチャンバラ映画も大好きというあたり豪傑。
昭和17年に前田山に部屋を譲って角界を去り、茨城県に隠居していた。
晩年の昭和34年に小島貞二氏が茨城に隠居していた朝潮こと坪井氏を訪ねている。当時すでに心臓を患っていたというがタバコの煙を絶やすことがなかったようだ。
当時の雑誌にも回顧があると思われるが確認できない。読売大相撲53年2月号の土俵人物誌にその思い出がある。歴代の横綱について尋ねているが
小島貞二氏も述べているがこれほど単純に横綱を評した人はいない。それも自分が体で測った強さだけに説得力がある。特に大正期以前の力士は貴重な証言だ。
ちなみに栃木山には3勝1敗、梅ヶ谷に6敗2分、太刀山に1勝11敗2預、鳳に3勝5敗である。上り坂と下り坂の差もあるとはいえ、強いと言った栃木山には勝越し、大して強くないと評した鳳に負け越しは意外である。
この2年後の昭和36年、82歳でなくなった。明治期の力士として最長老の部類であった。
ある意味高砂のアウトロー精神は前田山ではなくこの朝潮が元祖かもしれない。
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